三

 この際、法螺の貝の音には田山白雲も、多少おどかされざるを得ませんでした。
 相当|喧噪《けんそう》な人間の雑音は、こういう際だからやむを得ないにしても、この中へ、非常時用の器楽が一つ加わろうとまでは思い及ばなかったことでした。
 向う岸で法螺《ほら》の貝を吹き出すと、やがてこちらでも、いつのまにか、田山白雲のつい足許《あしもと》から同じ貝の音がすさまじく響き出しました。
 法螺の貝の音が聞え出すと共に、あちらの畑や、こちらの木蔭や、川にもやっていた舟の底なんぞから、一人、二人、三人、四人、続々と人間が首を出して来て、いずれもかなり不穏な面《かお》つきをしながら、おのおの両岸の法螺の鳴っている根拠を目指して集まり寄るのは、非常召集の合図を聞いた屯田兵《とんでんへい》のようです。
「これは存外、事が重大になりそうだわい」
 田山白雲は、自分の身の上に何か相当の危難が降りかかりでもするかのように、川の中の強情者の行動を改めて篤《とく》と見据えて見たが、事態がしかく物々しくなりつつあるに拘らず、事実はかえって簡単明瞭なものに過ぎないということを直覚して、かえって安心した気持になります。
 不安の目的物たる存在が、現在、眼の前にいるのですから、問題としては、複雑した事情というものは更に無いのです。万一、これが夜分であるとか、あれがまた川を縦に走り出した日には、川上へ行っても、川下へ下っても際限が無いのですけれども、川を横切って、そうしてこちらを向いて、白昼たった一人でやって来るのですから、その取扱いは極めて簡単明瞭といわなければなりません。言葉を換えて言ってみると、向うから追い落した獲物《えもの》を、こちらに網を張って待っていると、獲物それ自身が、その網にかかりに来るような方向を取って進んで来るのですから、進退の節《ふし》は極めて明らかなもので、かえって両岸の狼狽ぶりがおかしいほどのものです。
 かくして右の裸の人物は、無事にこちらの岸に到着してしまいました。法螺の貝の下《もと》に集まった連中は、直ちに川原へ駆けつけて、怖々《こわごわ》とそれを遠巻きにして取詰めて行くあんばいで、頓《とみ》には取押えようとはしません。
「寒いことざえ、凍《こご》えてうっ死《ち》んじあうべ――この寒い水ん中をなあ」
 時は初秋とはいえ、北地は寒い。ああして一途《いちず》に水へは飛び
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