でつして来たものらしかったが、ここに至って柳の老大樹の林を全く後ろにして、そうして広い原の真只中へ露出しました。
 右手には翁倉《おうくら》、黒森《くろもり》の山々が黒く十三浜の方に続いている。その広い原の真只中で、さきほど月に向って唐詩を微吟したところの大きい方の黒い影が後ろを顧みて、
「君、恐山《おそれざん》という山は、よっぽど高い山かね」
 その声を聞くと、それは日中、渡頭《わたしば》を徘徊していたところの、下野《しもつけ》の足利の貧乏にして豪傑なる絵師田山白雲に相違ありません。そうすると、振返って呼びかけられた後ろの小さい方の黒法師が直ちに答えました、
「高い山じゃないですね、そう大して高いという山じゃないです」
 直ちにこう答えたのは、これも日中、渡頭で居合抜きの芸術を鮮かにやってのけて見せたが――旅行券では、すっかり悄然返《しょげかえ》ったところの恐山出身の柳田平治に相違ないのです。この二つの黒法師は、黒法師っぷりとしてかえって調和がありました。田山白雲はすぐれて容貌魁偉《ようぼうかいい》であるのに、柳田平治は普通よりは小柄です。白雲の刀も普通よりは長いには長いが、身体には釣合っている。柳田平治のはただ一本、長過ぎることは昼間と変らないのです。こうして二人が相前後して北上川の沿岸の月の平野の夜を、我語り、彼答えつつそぞろ歩いて行くのですが、柳田平治は今の返答に附け加えて、
「南部の恐山といえば、なかなか有名ですから、人はすてきに高い山だと思いますが、山はさほど高くはないのです。山は高くないけれども、形相《ぎょうそう》の変った山でしてね、恐山には地獄が九十九個所あって、極楽がたった一個所だと言われます、なんにしても恐山は登る山でなくして寧《むし》ろ下る山なのです」
と言いました。

         二十一

「山へ下る――」
と言って、田山白雲の黒い影が、ちょっと淀《よど》みました。
 どんな山でも山という以上は、人間としては上るべきものである。山へ下るということは、あるまじきことである。柳田平治も当然それを補わなければならないのですが、特に註釈をしませんでした。それを田山白雲もおしてたずねようともせず、閑々として歩みつづけます。
 かくて大小二つの黒法師は、いよいよ広原の中の月光の下に、鮮かに黒法師ぶりを発揮しながら無言の進行をつづけましたが、この二人
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