つ眼色毛色まで変っている毛唐めの口車に乗ったのは、いつか知らず自分が、この毛唐の持つ音楽的魅力に捉えられてしまっていたのだということを、まだ当人は気がついていないのです。
マドロスそのものはいやな奴、身ぶるいしたいほど嫌なウスノロではあるけれども、こいつに音楽をやり出されると、どうしても誘惑を蒙《こうむ》らざるを得ないのです。誘惑も深く進めば感激となり、やがては身心ともに陶酔、というところまで持込まれない限りはない。
名の知れない、わけのわからない、聞いたことも見たこともない国の音楽が、女の心を、それからそれへと捉えて行くのです。そのメロディよりも、ハーモニーよりも、まずそのリズムに。
兵部の娘は、日本の音楽は好きで、そうしてかなりの教養を持っておりました。それで、身近に茂太郎という絶好の伴奏者がいたものですから、それに仕込んだり、仕込まれたりして、音楽には異様に発達した何物かを備えていたと見てよいのです。
ところで、その耳をもって、全く聞き慣れない西洋音楽――といっても、怪しい限りのマドロスの演奏ぶりを、いま言ったような下地へ受取っているうちに、それが根を持って来るという段取りでした。
いま言う通り、唄の文句は全くわからないが、メロディを捉えることに於ては、この女に相当の教養があり、そのリズムに動かされると、心酔し易《やす》いことは、天才と言えなければ、病的なほどの鋭敏さを持っているのです。
女はもう、しんとして聴き惚《ほ》れてしまいました。なにもかも忘れて、野卑で、下等で、醜悪な人間が奏《かな》でる、一種異様な異国情調の漂蕩《ひょうとう》に堪えられなくなってしまったと見えて、
「マドロスさん、何という曲だかわたしは全くわからないが、聞いていると泣けてしまってよ、泣かずにはいられなくなってよ」
と、その一曲が終った時、女は無性《むしょう》に涙を流しながら言いつづけました。
「何という唄だか知らないが、聞いているうちに、何とも言えない熱い情合いがうつって、たまらない。異国にも、やっぱり恋無情といったようなものがあるのね。日本の国と同じように、苦しい世間の中に、甘い恋路をたずねて、死ぬの生きるのともがいている、血色と肉附のよい若い男女が狂っているような、苦しい――けれども甘い、淋しい、哀《かな》しい世界が、まざまざと見え出して、わたし、たまらなくなってしま
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