けば抱きすくめられてしまい、走れば追い越されてしまう。どうにもこうにも仕様はあるべくもないことを、娘は百も合点《がてん》して、そうしてなお一層、甘ったるく持ちかけるようです。
「ねえ、マドロスさん、お炬燵《こた》が出来たらば、手風琴を弾いて唄を聴かせて頂戴、何でもいいわ、あなたのお得意《はこ》のものをね。淋しいから陽気なものがいいでしょう、思い切って陽気な、賑やかな唄を聴かせて頂戴な。でも、淋しいのでもかまわない」
 こう言われて、マドロスが全く相好《そうごう》を崩し切って、六尺の身体が涎《よだれ》で流れ出しました。

         十七

 相好を崩し、涎で身体をただよわせながら、マドロスが言いました、
「デハオ嬢サン、スペインノ歌ヲ一ツ聞カセテアゲルコトアリマス、スペインハ日本人イスパニヤ言イマス、イスパニヤハ果物タイヘンオイシイデス、唄モナカナカ面白イデス、オ婆サンモ、若イ娘サンモ、ヨク唄ウアリマス」
 手風琴を取り直すと、ブーカブーカをはじめて、何かわけのわからぬ唄をうたい出しました。それを聞いていると、なんだか長く尾を引いた高調子の唄ではあるが、賑やかな音楽と言ったのに、妙に物哀しい音色を包んでいる。そこで、女がこう言ってたずねました――
「マドロスさん、今の唄、何という唄なの、なんだか琵琶を聞くような、悲しいところがあるわね」
「コレハフラメンコイウ唄デス、次ハタランテラ唄イマショ、ナポリイウトコロデ唄イマス」
とマドロスは前置きをして、また一種異様な音楽をはじめ出しました。
 この甘ったるいマドロスが、フラメンコだの、タランテラだの名題を並べては、わけのわからぬものをやり出すのですが、女には、もとより何が何だかわからないし、また得意でやり出している御当人のマドロスにも、その音楽の本質がわかってやるのだかどうだか、それも甚《はなは》だ怪しいものなのです。
 怪しいものには相違ないけれども、いいかげんの出鱈目《でたらめ》に奏《かな》でているものとは思われません。
 本来、このウスノロのマドロスの生国は何国の者だかわかっていないのです。御当人自身にも、自分の国籍は判断し兼ねるのですが、ともかくラテン系のどこかの場末で生れ、そうして物心つくと共に、労働と漂泊に身を委《ゆだ》ねてしまったものですから、国籍は海の上にあって、戸籍は船の中にあるものと心得ているら
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