与八も鈍感な頭をめぐらして、このお婆さんの、皺《しわ》くちゃな身体を見直さないわけにはゆきませんでした。
しかし与八は、必ずしもそのことを疑いはしませんでした。与八の頭は、何事でも無条件に信じ得るような頭になっているのですから、むしろただ、そういう人が、今、お婆さんの形をとって、自分の眼の前に現われてくれたことの大いなる驚異に目をみはって、あらためてお婆さんの皺くちゃな身体を見直したまでのことです。
九十
やがて、お婆さんがお湯から上ると、与八は郁太郎を背負い、この浴場からお婆さんを導いて、自分の教場へと連れて来ました。
教場といっても、それは特にしつらえた建物ではない。暴女王お銀様がこしらえた悪女塚を取崩して、そこへ構えこんだ与八小屋が、おのずから教場となり、校舎となっている――そこへお婆さんを連れて来ると、早くも子供たちが群がって来ました。
「与八さん、お早う」
「おじさん、お早う」
「先生、お早うございます」
「こんにちは……」
いつか、彼等が一通りの礼儀を心得るようになっている。初めに子供たちが遊びに来た時分には、お辞儀などをする殊勝な奴は一人もなかったが、このごろは、まず、子供たちが何人《なにびと》に対しても朝晩の挨拶をするようになっている。
与八は炉辺の講座へ坐りこんで、お婆さんを席に招じて言いました、
「お婆さん、お蕎麦《そば》が出来てるから、一ぜん食べておいでなさい」
「それはそれは、どうも」
と言って、お婆さんがいよいよ感心して、好意を受けると、
「さあ、みんな、お婆さんにお蕎麦を御馳走して上げな」
見ていると、与八の指図に応じて、子供たちが膳部の用意をする。ある者は、鍋を持ち出してお汁の吟味をし、ある者は、薪を抱えこんで来て炉の中の火を加えようとする。ある者は、流しもとへ行ってお膳と茶碗を拭きにかかる。
そうしてほどなく蕎麦をあたためて膳をこしらえ、薬味までちゃんと添えて、お婆さんの前へ丁寧にそのお膳を拵《こしら》えたものですから、お婆さんが、全く驚異の眼をみはってしまいました。
「まあ、この子供たちの躾《しつけ》のいいこと、こりゃみんな、お前さんのお弟子なんだね、恐れ入ったものですねえ」
とお婆さんは、せっかくの御馳走の箸《はし》をとることも忘れて、この大男の教育ぶりのいいことにも感心させられてしまうし、子供
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