「のうのう」
と手をさしのべたのは、その頭上の火が欲しいからでしょう。
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名月を取ってくれろと泣く児|哉《かな》
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 そこで女が、はじめて自己頭上の火がまだ消されていないことに気がつきました。

         五十九

 火を求むる幼な児の要求を、無下《むげ》に荒々しく斥《しりぞ》けた女は、いきなり頭上の鉄輪を外《はず》し、あわてて蝋燭の火をかき消してしまいました。
 これは木の上で消して来なければならない火であったのだ――昔の例はとにかく、今の世では、これをつけて街上を走ることは自己の存在を示すことであって、祈りの秘密のためには取らない。
 そう思って急に消しとめたのだが、目的のおもちゃを急に奪われた幼な児は、非常な失望で、急にゲラゲラ笑いが号泣と変ってしまいました。
 途端に、天空で星が一つ飛びました。同時に下界で、さっと風の走る音がしました。急に天地の動きを感じたかのように、女は四方《あたり》を見廻して、ゾッと身の毛をよだてたのです。ここで自分が身の毛をよだてるというのはおかしい、己《おの》れの姿を認めしめて、他をして身の毛をよだてしむるならばわかっているが、鬼それ自身がおののいたのでは問題にならないではないか。
 子供は盛んに泣いています。
 何と思ったか鬼女は、水屋の方へ向って一散に走りかけました。走ったのではない、飛びかかったような勢いでした。水屋というのは、前に出て来た鼓楼とは反対の側にあるのですが、鬼女――鬼女といっても、この際、急速に角が生え出したわけではなく、最初からの呪いの女をかく呼び換えてみただけのものです――はその水屋に向って突進したのですが、何につまずいたか、何に蹴られたか、そこにドウとばかりに仰向けにひっくり返ってしまいました。
「あ、あ、あ、あ」
 そのまた起き上る前を、後ろの物蔭から長い手が一つ出て、鬼の頸《くび》を後ろから羽掻締《はがいじ》めにして、そのままスルスルと「玄関の松」の後ろへ引込みました。
「あ、あ、あ」
と女は、なされるがままにして逆らうの力がない。怖ろしいものです、上には上があるものです、大通寺の境内《けいだい》には鬼を取って食う怪物がいる。
 今やまさに、この玄関の松の裏の見えないところで、怪物の手に引きずられて、鬼女は骨まで食われている。
「あ、あ、あ」
 それ
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