ならば仔細はないが、南部領の人であってみると、そこに相当の気分を転換してかからねばなるまい。よしよし、ここに駒井甚三郎から借りて来た最新式の遠眼鏡というものがある、この地点へ、この視官の飛道具を押据えてからに、あの早舟がいかなる性質の人を乗せて来て、こちらのわやわやをどう捌《さば》くか、これを見定めての上で、おもむろに天王山を下るも遅くはあるまい。
田山白雲は、こんなような考えを起して、いったん下りかけた小丘を、また頂上まで上りつめて、そうして、遠眼鏡を取り直した時分に、早舟は早くも岸へ着きました。
六
今まで、船頭共だけであしらい兼ねていた問題の川破りの男が、やがてこの早舟で来た役人たちの取調べに引渡されてしまい、そこで役人たちが川破りを受取って、実地取調べにかかる段取りになってみると、白雲もここに超然とは落着ききれないものがあると見え、どうしても一歩一歩と高きを下らざるを得なくなって、ついに人垣の後ろへ立って、いちぶしじゅうを見届けることになりました。
臨時予審廷といったようなものが、渡頭の上の茶店の内から外へ溢《あふ》れて行われているのですが、ちょうど今、ようやく訊問がはじまろうとする時でした。役人が家の中の床几《しょうぎ》に腰をかけて、川破りの男がその前の土間に突立っている。
「君はドコから来た」
役人は、土地の船頭共のように甚《はなはだ》しい土音は用いないで、まず通常の標準語で問いかけると、川破りもまたこれに準じた言葉で、
「南部から来申した」
「南部のどこから来た」
「恐山《おそれざん》から」
「恐山? 恐山に住んでいたのか」
「八戸《はちのへ》の生れだが、恐山に修行していた」
「何の修行を?」
「何ということなく、あの山で修行をしていた」
「八戸に生家がござるのか」
「ござる」
「身分は――」
「父はお山改めだ」
「そうして君は?」
「その二男だ、上には兄貴があって、下には妹がある」
「ふーむ、それが、この地方へ何しに来たのだ」
「江戸へ行こうと思ってやって来たのだ」
「江戸へ、何の目的で?」
「何の目的ということはないが、江戸は天下の膝元ということだから、そこで修行をしたい」
「君は最初から修行修行と言うが、修行にもいろいろある」
「もちろん、修行にもいろいろあるが、まず一匹一人の修行をして、男になりたいと思っているだけ
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