父の伊太夫が案内されました。
 この第一室に納められた時に、伊太夫はこの座敷を異様なりと感じました。微行《しのび》の旅ではあり、また関ヶ原の真中で、そう贅沢《ぜいたく》な宿が取れるはずはないが、それにしてもこの座敷は、さように粗末なものではない。時としては、大名公家が泊っても、狼狽《ろうばい》しないほどの設備はととのえられていることを認めました。
 ここで第一等の座敷を、附添の者の心づけで、特に伊太夫のために提供するようになったのは無理もないが、ここに納められる時に異様に感じたのは、床の間であります。床の間には三藐院《さんみゃくいん》の掛物がかけてありました。三藐院の掛物は感心こそすれ、あえて異様とするには足りないのですが、その下の置物がたしかに異様でありました。そこには一個の人間の髑髏《どくろ》が、暗然《あんぜん》として置かれてあったからです。
「変な置物だな」
 伊太夫は、つくづくと一時《いっとき》それを見ましたけれど、わざわざ立って、コツコツと叩いてみるようなことはしませんでした。色も、形も、ほぼ完全なる人間の首の髑髏にはなっているが、まさか本物を飾って置くとは思いませんでした。主人が好事家《こうずか》で、凝《こ》っての上のもてなしだろうとも感じましたが、それにしても、凝り方が少し厳しいとまでは思いましたけれども、伊太夫としては、それにうなされたり、取りつかれたりするほどに弱気ではなかったのです。
 だが、彫刻にしてはなかなかうまい。うまいまずいは別としても、真に迫っているとまでは思いました。これを彫った奴は相当の腕利きだわいと次に少し感心し、それから最後に、木彫《きぼり》か、牙彫《げぼり》か、何だろうと、ちょっとその材料の点にまで頭を使って見たようですが、なお決して、伊太夫は、それに近づいてコツコツと叩いてみるような無作法には及びませんでした。
「御免下さりませ」
と、宿の主人がやって来ました。
「はいはい」
と伊太夫がその方を向くと、
「さきほどの品をこれへ持参いたしました、篤《とく》とごらん下さりませ」
「それはそれは。では、とにかく、一晩お借り申して、ゆっくり……」
「どうぞ、ごゆるりと」
 宿の主人が、自身でわざわざ持って来た、何か古錦襴切《こきんらんぎれ》のような袋に包んだ、古色蒼然《こしょくそうぜん》たる箱物を一つ、恭《うやうや》しく伊太夫の枕許
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