応対は存外|和《やわ》らかなものでした。
「お願い申しまんな、わしが身をこちら様でお使い下さらんかいな、こちら様へ上れば、どないにしても使って下さいますそうな、そないに麓《ふもと》で聞きましたから、押してまいりましたさかい、お使い下さいましな」
 関守氏も、この返答にはちょっと困ったようでしたが、
「どこからおいでなすったエ」
「甲賀郡から参りました」
「一人ですかい」
「はい、御奉公をいたしておりましたがな、どないにもつとまり兼ねますさかい、出てまいりました」
「奉公先を出て来た? 御主人に断わってか」
「いいえ」
「親御たちは承知かな」
「いいえ」
「じゃ、逃げて来たんだな、逃げて来るとはよくよくのことだろう、とにかくここにいなさい」
「有難うございます」
「まあ、裏へ廻って足を洗いなさい」
「はい」
「足を洗ったら、そこらの掃除をしなさい」
「はい」
「飯をたべたか」
「はい」
「まだだな。では台所へ行ってな、大工さんのおかみさんがいるから、ちょっとここへ来るように言ってくれ、大工さんのおかみさんに、関守が呼んでいると言ってくれ」
「はい」
「いまお前がはいって来たあの木戸から左へ廻るんだ――いいか、鑿《のみ》の音や、鉋《かんな》の音がしているだろう、あっちへ行くんだよ」
「はい」
 汚ない小娘は包を抱えて、指さされた方へ向って行ってしまう。その後ろ姿に何ともいえぬ哀愁を覚えたのは関守氏ばかりではありませんでした。
「逃げて来たのですね」
と、甲州からの仕立飛脚が言いますと、関守氏が、
「いや、一人二人ずつ、このごろはああいうのが見え出しました、なかには首をくくろうとしているのを、出入りの大工が助けて連れて来た青年もおります、今は快く工場に働いていてくれます。働き得る人は、誰でも拒《こば》まない方針を採りたいものだと思っております」
 甲州から来た仕立飛脚氏はここに於て、自分はここへ使に来たのだか、入園によこされたのだか、わからない気分にさせられてしまったようです――つまり、なんだか自分もここへ引きつけられて、居ついてしまわねばならないものでもあるかのような気持にさせられてしまったようです。

         四十

 お銀様の事業の番頭として不破の関守氏が与えられたことは、偶然としても、稀れに見る偶然でありました。
 この人は、中国浪人と称しているけれども
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