大菩薩峠
恐山の巻
中里介山

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)渡頭《わたしば》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)相当|喧噪《けんそう》な

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+卒」、第3水準1−15−7]
−−

         一

 田山白雲は北上川の渡頭《わたしば》に立って、渡し舟の出るのを待兼ねている。
 舟の出発を待侘《まちわ》びるものは田山白雲一人ではなく、士農工商が一人二人と渡頭へ集まってひっかかる。こちらの岸もそうだから、向うの岸も同様に、土農工商がせき留められて、舟を待つ人の数は増すばかりです。
 田山白雲は焦《じれ》ったがりながら、渡頭に近い高さ三メートルばかりの小丘の上で、遠眼鏡を眼窩《がんか》の上から離さず、マドロスの逃げ込んだ追波《おっぱ》の本流の方をしきりに注視していましたが、そのうちに、向う岸の渡頭に集まって舟を待侘びる士農工商の群れが、急に動揺をはじめたような模様が見えます。同時にその舟待ちの群れの中から、転がり出したように躍《おど》り出して来た一個の人物があることを認めて、興味の遠眼鏡をその方に転じました。
 その人物は、すでに人混みの背後《うしろ》で身仕度をととのえたと見えて、身体《からだ》は裸で、頭の上へ物を載せ、人を押分けて前へ進んだと見ると、いきなりざんぶと川の中へ飛び込んで泳ぎはじめたものですから、
「奥州にも気の短い奴がいる!」
と、田山白雲が思わずこちらで舌を捲きました。
「奥州にも気の短い奴がいる!」と田山白雲が思わず舌を捲いたのは、奥州人はすべて気の長いものと前提をきめてかかったわけではなく、ここで渡し舟の徹底的スロモぶりに呆《あき》れ返った反動から、ツイそう呼んでみたまでのことで、実際、いま川の中へ飛び込んだ眼前その人物の挙動を見ると、その気配だけで、たしかに気の短い男であるべき証跡は歴々たるものであります。かくばかり悠々閑々たる渡し舟の船頭のスロモぶりに堪忍《かんにん》がなり難く、堪忍がなり難いと共に、その爆発した癇癖《かんぺき》を、直線的に決行するだけの盲動力を持った男であるということだけは、白雲の眼と頭で、ハッキリと受取ることができました。

次へ
全276ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング