も、来やせぬ」
「高山の方から、待てといって追手のかかるような心配はございませんのね」
「それは絶対にない――」
と兵馬はきっぱり言い切って、こし方の飛騨の高山の方をそっと見返りましたが、なお、女のために、安心せしむる言葉をつけ足して、
「君は加州金沢の知辺《しるべ》のところへ身を落着ける、拙者は途中、相当の地点まで君を送って、それから白山に登る――ということで、高山の役向の了解を得た上に、手形切手のことも落なく取計らって来ているから、松本の時とも違い、中房の時とも違って、この通り、青天白日の下を大手を振って歩けるようにして出て来ているのだから、その点は更に心配することはないのだ」
「ほんとに、こうも晴々しく旅立ちのできるのは、わたし、生れて初めてなのよ。今までした旅という旅は、みんな追われて逃げるような旅ばっかりでしたのに、きょうという今日はこうして明るい日に、晴れてあなたと――水入らず、なんだか恥かしいような、勿体《もったい》ないような、安心したような、追われているような、変な気持――でも、わたし、こんな嬉しい旅は今までにした覚えがありません。これというのもみんな、あなたのお面《かお》、あなたがお役所向きをすっかりよくして下すったから……まあ、そんなに、いつまでも、あなた、そっけなく突立っていらっしゃらないでも宜しいじゃございませんか、ここへお坐りなさいましな」
「うむ」
「本当のことはねえ、宇津木さん、わたし、もうこの上は一寸も歩けないのよ」
「どうして」
「どうしてたって、あなた――少しは同情して頂戴な、足弱のわたしにばっかり重い物を持たせて……」
「君に別段、重たい物を持たせたつもりはないが……」
「ありますわよ、わたしも意地ですから、ここまで一生懸命に持って来ましたけれど、もう意地にも我慢にも持ちきれませんから、ここいらで、あなたに肩代りをしていただきたいと思います」
「何だ、それは」
「まあ、お坐り下さいまし、これをあなたに持たせて上げなければ……」
と言って、女は着ていた旅姿の上着をかかげはじめて、前の襟をグッと押しひろげ、そうして下腹の方へしきりに手を入れてはたくしあげているのを、兵馬は見て見ないふりをしていると、やがて女は、友禅模様の縮緬《ちりめん》の胴巻をするすると自分の肌から引き出して、それを草原に置きました。
「ねえ、宇津木さん」
「何です」
「これをごらん下さいまし。ただごらん下さるだけじゃいけないのよ、ここまでは、わたしが持って来ましたけれど、これからはあなたに持たせて上げなけりゃ、わたしがやりきれません」
と言って、女はその胴巻をまた取り直すと見ると、なるほど、ずしりとかなりな重味です。ははあ、金だな、金として見ると相当な大金だ、この女、商売柄に似合わず心がけがよい、今日まで稼《かせ》ぎためて、この際、最も有効に持ち出したものだろう――と、兵馬が横目に見ていると、女はその胴巻を無雑作《むぞうさ》に吊《つる》し上げて、蛇の腹をでも逆さにしごくように持ち上げると、スルスルと中からおもみのあるものが、花野原に向って吐き出されました。
「宇津木様――これから、このお宝をそっくりあなたにお引継ぎいたしますから、よろしいように」
「ははあ、大金のようだな」
「え、わたしたちとしては、大金なんでございますが」
「いったい、いくらあるのです」
「三百両ございましょう、そっくり小判で」
「三百両――」
と言って、兵馬が実は内心、大いに驚きました。最初から不相応な重味とは見ていたのだが、小判で耳を揃えて三百両の包み、これは断じてこの女の稼ぎためた代物《しろもの》ではない。そうかといって、旅から旅を売られて歩くこの女が、始終こころがけてこの三百両を肌身につけて放さないということは、有り得べきことではない。恥かしながら自分としても、まだ三百両という耳の揃った金を手に取った覚えはない――これがあの有野村の暴女王の懐ろからでも出たことだと、さして不思議とするに足りないが、この女からここでこうして投げ出されてみると、兵馬は無言でこれをながめ去るわけにはゆかないでいる先《せん》をきって、
「あなた、吃驚《びっくり》していらっしゃるわね、びっくりなさるのも御無理はございませんが、御安心くださいまし、性《しょう》の知れたお金でございますから」
「どうして君が、そんな大金を持って出て来たのだ、それほどの金を持っていたなら、出立の前に、拙者にそれと打明けてくれた方がよかったのに」
「あの時にこれを打明けようものなら、物堅いあなたのことですから、元へ返せのなんのと文句をおっしゃるにちがいないから、退引《のっぴき》ならないように、ここまでわたしが重たい思いをして持って来ました。もう、あなた、へたな熊谷のように戻せの返せのとおっしゃっても駄目です、わたしの心意気で、あなたに貢《みつ》ぐお金なのですから、お受けにならなければ男が立たないってことになるのよ」
「いったい、君はどうしてこれだけの金を持っているのだ、不相応の金だ、君にとっても不相応だし、拙者にとっても不相応だ――これはどこからどうして出た金だ、その出所がわからぬ間は、拙者として、めったに手に触れるわけには参らん」
「そうおいでなさるだろうと思っていましたわ。それは、わたしが持って来たからといって、わたしのお金でないことはわかりきっていますわねえ。わたし風情《ふぜい》で、これだけのお金をふだんこうして肌身につけていられるくらいなら、こんな稼業《かぎょう》をしておりません、これはお他人様《ひとさま》のお宝なのよ。でも、御安心くださいまし、お他人様のお宝には違いありませんけれども、それは、いわばわたしたちに授かりものなんですから、二人で思うように使ってしまってかまわないたちのお金なんだから……そこでわたしのものはあなたの物、あなたの物はわたしの物という寸法になるのよ、嬉しかなくって?」
「なんだか、君の言うことは論理がようわからん――苟《いやし》くも自分の所有に属せざるものを、無断で勝手に使用して差支えないということはいずれの時、いずれの国の掟《おきて》にもない」
「ところが、あなた、この国の今日の場合には、ちょうど誂向《あつらえむ》きにそういう掟が出来ているのですから、豪勢でしょう――そんなことはどうでもいいわ、手っとり早く、打明けてしまいましょう、実はねえ、宇津木さん、このお宝は、例のそら――お蘭さんのお金なんですよ」
「お蘭どのの?」
「え、え、お蘭さんのうちにあったのを、がんりき[#「がんりき」に傍点]の奴がそっくりわたしのところへ持って来て、預けっぱなし、それなのよ」
「ははあ――」
「ですから、いいでしょう、ちょうど、わたしたちにお使いなさいって天道様が授けて下さったものなのよ、わたしたちが使ってあげる方が、あのお蘭さんや、がんりき[#「がんりき」に傍点]の奴に使わせるより、ぐっと功徳《くどく》になる、またそうでもしてやらなけりゃ、わたしの癪《しゃく》の虫が承知しない」
「ははあ――」
と、兵馬はここで、ちょっと考えさせられました。

         十

 これは、一種異様なお金の出所《でどころ》だ。
 預りものではないが、盗みものとも言えない。
 お蘭どのがああなってしまえば、この金をこのままにして置いたところで取りに来る者がない。使ってしまったところで、尻を持って来るおそれのないような金だ。
 そうかと言って、これがこの女に所有権があるというわけではないから、この女に使用権が附着するということも成り立たない。
 そういうようなことを考えているうちに福松は、切餅のような三百両包を三つ、手に取りあげたり、取落してみたりしながら、
「わたしたちの日頃の心がけがいいから、それで白山様がお恵み下さったのよ――御信心のおかげですわ。こうなると、お蘭さんばかり恨んではいられないわねえ。ねえ、宇津木様、どうかして頂戴、この大枚のお金を――わたし、あなたに、すっかりお任せしてしまいますから、煮て召上るなり、焼いて召上るなり……」
「うむ」
「ねえ、あなた、これだけあれば、あなたとわたしと二人で、日本中の名所見物をして歩いても不足はありませんわね」
「ばかなこと」
「加賀の金沢か、越中の富山あたりへ、小ぢんまりした世帯《しょたい》を持てば、一生遊んで暮して行けやしないこと」
「ふーん」
「また、これから白山へ行く途中には、白水谷《はくすいだに》だの、畜生谷なんて、名前はいやなところですけれども、どんな悪人でも隠れて一生安楽に暮せる里があるって言いますけれど……わたし、それは御免を蒙《こうむ》りたいのよ、いかに暮しよくっても、そんなところで一生を埋めてしまってはまだかわいそうよ……ですからね、宇津木さん、こうして頂戴、加賀の金沢というところは百万石の御城下でしょう、何はともあれ、二人してあすこへ落着きましょうよ、そうして、わたしは自前《じまえ》で暢気《のんき》にこの商売をしますから、あなた兄さんになって頂戴――これだけ資本《もとで》があれば、立派に自前で通して、あなた一人を過すことなんぞは、憚《はばか》りながらわたしの腕で朝飯前よ」
「まあ、何でも君のいいように使い給え、君には授かりものかも知れないが、拙者には用のない金だ」
「あら、また、あんな小憎らしいことをおっしゃる、こういう御縁になってみれば、わたしのものはあなたのもの、あなたのものはわたしのもの、でもあなたが見るのもおいやとおっしゃるなら、わたし、もう、とても重くってやりきれないから打捨《うっちゃ》ってしまいますよ」
「では、とにかく、道中だけは拙者が預かろう」
「嬉しい」
「では出立いたそう」
「どうしてあなた、そんなにお急《せ》きになるのよう、前に日限のある身ではなし、あとから追手のかかる旅でもないのに、もっと落着いていらっしゃいな。それにあなた、飛騨の高山も今が一生の見納めじゃなくって、二度と再び頼まれても、わたしはもう、こんな土地へ帰りゃしません、あなただって御同様でしょう。一生の思い出に、ここでひとつ、ゆっくりとお名残《なご》りを惜しもうではありませんか」
と言って、女はこし方の高山の方へと向き直りました。
 しょうことなしに兵馬が佇《たたず》んでいると、女はどうしたのか、いよいよ浮き立ってきて、
「ねえ、宇津木さん、ここでわたしがお名残りに、飛騨の高山で覚えた芸づくしをお聞きに入れるわ――お相手があなたじゃ、その方は張合いがないけれど、わたしの心意気だけを聞いて頂戴よ。いいえ、あなたにお見せ申す心意気てわけじゃないことよ、これっぽっちの間ですけれども、高山には御厄介になっていたお礼心で、わたしここで、高山音頭を器量一杯にうたってみますわ、あなたはお相伴《しょうばん》に、おとなしく聞いていらっしゃいな」
 女は高山の方へずっと向き直って、そうしてツツンテンテンと口三味線をはじめました。
「聞いていらっしゃい、古いところからお耳に入れてあげるから」
 兵馬がいよいよもてあまして立っていると、女は練り上げた声で、
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宮の八兵衛は酒お好き
お酒三杯と嬶《かか》かえた
嬶かえた……
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 その突拍子な調子を兵馬が呆《あき》れました。
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心やすやす安川を
向うに越ゆるは鍛冶屋橋
宮で角助、平湯で右衛門《えもん》さ
ドン、ドン、ドドロン、ドン
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 兵馬は呆れ果てているけれど、女はいい心持に、また調子を替えて、
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おちゃえ、おちゃえ
おちゃのうちの梨の木で
蝉が鳴く、何と鳴く
つまこい、つまこいと三声なく
おちゃえ、おちゃえ
あねさの腰の巾着は
びろどかな
びろどでないが、熊の皮
おちゃえ、おちゃえ
[#ここで字下げ終わり]
「それから今度は白川おけさ……」
と軽く手前口上をのべて、
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おけさよう
おけさ正直なら
そばにもねさしょ
おけさ猫の性で
そうれ爪たてた
おけさよう
おけさ踊る
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