よ――」
「高山じゃ、つまらない、欲しくったって、二度とあすこへ行けますか」
「ところが、ここで気を抜いたら、わっしが、ちょっと行って受取って参りますから、御安心ください」
「ちょっと行くったって、お前、ここはもう近江の国じゃないか、これから美濃の国を通り過して、それからまた飛騨の高山まで、ちょっくらちょっとの道のりじゃありませんよ。それにお前さん、それを取りにでも行こうものなら、待ってましたと、隠密《おんみつ》の手で引上げられてしまうにきまっていますよ。飛んで火に入る夏の虫とは本当にこのこと、三百両は惜しいけれども、銭金のことは、またどこでどうして稼《かせ》ぎ出せないとも限らない、命は二つとありませんからね、せっかくだが、あきらめちまいましょうよ」
「ところがねえ、お蘭さん、その辺に抜かりのあるがんりき[#「がんりき」に傍点]じゃあございません、その預け先というのが、決して、どう間違っても、ばれ[#「ばれ」に傍点]たり、足のついたりする相手じゃあねえのですから、豪気なものです。それに、憚りながら、この兄さんは足が少々達者でしてね、飛騨の高山であろうと、越中の富山であろうと、ほんの少々の馬力で、御用をつとめますから、その方もまあ御安心くださいまし」
「いったい、高山のどこへ預けて来たんですよ」
「こうなっちゃ、すっかり白状してしまいますが、あの宮川通りの芸妓屋《げいしゃや》、和泉屋の福松という女のところへ、確かに三百両預けて参りました」
「あの福松に――憎らしい」
お蘭どのは、どうした勘違いか、がんりき[#「がんりき」に傍点]の膝をいやッというほどつねり上げたから、
「あ痛! 何をしやがる」
と、百の野郎が飛び上ったのは当然です。そこでお蘭どのがまた、御機嫌斜めで、
「嘘つき、あんな芸妓にわたしの金を預けるなんて――預けたんじゃない、やってしまったんだろう」
「御冗談、あんな田舎芸妓に、三百両を捲上げられるような、がんりき[#「がんりき」に傍点]とはがんりき[#「がんりき」に傍点]が違いますよ、見そこなっちゃあいけねえ」
「本当ならお前、それを取って来て、わたしの眼の前に並べてごらん」
「言われるまでもねえことさ、これからひとっ走り行って持帰って来てごらんに入れると、さっきから、あれほど言ってるじゃねえか」
「じゃあ、そこでお前さんの本当の腕と、実意を見て上げようじゃないか、早く取戻して来て頂戴」
「合点《がってん》だ――こうと、三日を限ってひとつ約束して上げようじゃねえか、明日の朝から三日だよ、いいかい、その間、お前は、ここに永く泊っているのもなんだろうから、これから、ずっと近江路へのして待っていな――近江路はそうさねえ、草津か、大津か――いま道中記を見て、しかるべき宿屋へ当りをつけて置いてやるから、そこで、ゆっくり待っていな――」
がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は包みを解いて道中記を出し、宿屋調べをしていると、お蘭どのが、
「でも、なんだか、お金は欲しいには欲しいけれども、危ないようでねえ――お金は戻っても戻らなくてもいいからねえ、三日目には帰って頂戴よ、大津あたりに宿をきめて待っているから、手ぶらでもかまわないから、三日目には帰って頂戴よう」
と、かなり淋《さび》しそうな表情で、しなだれかかりました。
「まあ、そんなに気を揉《も》みなさんなよ、色男、金と力は無かりけりてのは昔のこと、今時の色男は、金も力もあるというところをお目にかけてやりてえんだよ」
と、がんりき[#「がんりき」に傍点]が甘ったるい返事――
そのうち二人は、道中記を調べて、お蘭どのが先へ行って、待合わすべき宿屋をきめて置いて、万一の時は、その旅宿も目じるしをつけて置いて先発し、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、これからまた飛騨の高山へ逆戻りして、和泉屋の福松のところへ預けて置いた三百両を取戻して、お蘭どのに見せてやるべく、その翌日早朝に、寝物語の宿を立ち出でてしまったのです。美濃路へ後戻りをしながら、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は思出し笑いを、したたか鼻の先にぶらさげて、
「ふーん、甘え[#「甘え」に傍点]ものさ。だがまた、こいつは格別だよ、素人《しろうと》じゃあねえが、くろうと[#「くろうと」に傍点]でもなし、飛騨の高山の田舎娘上りとは言い条、どうして、味はこってりと本場物に出来てやがらあ、口前のうめえところは女郎はだしなんだが、あれで、気前と心意気にはうぶ[#「うぶ」に傍点]なところがまる残りなんだから掘出し物さ、いわば、生娘《きむすめ》と、お部屋様と、お女郎と、間男《まおとこ》とを、ひっくるめたような相手なんだから、近ごろ気の悪くなる代物《しろもの》だあ。なあに、がんりき[#「がんりき」に傍点]ほどの者が、たった三百両が残り惜しくって、飛騨の高山まで逆戻りの危ねえ綱を渡るでもねえ、三百両が欲しけりゃ、どこかもう少し安全な方面へ当りをつけたって、つかねえ限りもあるめえものだが、あいつにあの手文庫のままのやつを持って来て見せてやりてえ――まあ、お前さん、本当に持って来て下すったねえ、何という凄《すご》い腕でしょう、わたしゃ、お前さんのその片腕にほんとうに惚《ほ》れちまったよ――なあんて、あいつを心から参らせてみるのも悪い気がしねえテ」
百の野郎は、いや味たらしい思出し笑いをした上に、
「さてまた、福松の阿魔だがなア、あいつがまた、こちとらの面《かお》を見せるとただは帰《けえ》すめえがの――色男てやつは、どっちへ廻っても楽はできねえ」
八十一
こういった意気組みで、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百の野郎が、高山へ向けて自慢の迅足《はやあし》で飛んで行って、あの警戒の厳しい中を、首尾よく宮川通りの目的地まで、忍んで行ったには行ったけれども、御神燈の明りが入っていないことで、まず胆を冷し、叩いてみると、おとといあき家になっていたということで、ベソを掻《か》いてしまったのはいいザマです。
尋常にお暇乞いをして北国の方へ出かけたということだから、夜逃げというわけでもあるまいが、あんな田舎芸妓《いなかげいしゃ》に出しぬかれたのはがんりき[#「がんりき」に傍点]生涯の不覚と、苦笑いがとまらないが、しかし、こんなけんのん[#「けんのん」に傍点]な場所がらに、寸時も足を留めていることはできないから、すぐその足で、がんりき[#「がんりき」に傍点]はまた飛んで帰りました。
帰りの途中、がんりき[#「がんりき」に傍点]は、思い出しては、自分ながら腹も立たないほどばかばかしくって、お話にもなんにもならないと、やけ半分でむやみに歩いたが、それはそれでやむを得ないとして、さあ、三日目と約束したあのじだらくお蘭に、何と言って面《かお》を合わせたものか。
どうも仕方がねえ、お代りを工面《くめん》して行って、それでどうやら御機嫌を取結んで、こっちの男を立てるまでだ。お代りといったところで、ちょっと大枚の三百両だ、そこいらにそうザラにはころがっていねえ、これはこそこそや巾着切りじゃあ間に合わねえ、相当の荒仕事をしなければならねえが、さてどうしたものだろう。
がんりき[#「がんりき」に傍点]はこのことを考えて、美濃路をついに垂井《たるい》の宿まで来てしまったのが、三日目のもう夕刻です。今晩中の約束だから、夜明けまでには何とかして、お蘭どのの鼻先へ突きつけて見せなければ、がんりき[#「がんりき」に傍点]の男が廃《すた》る三百両の金。
関ヶ原あたりに転がっていまいものかと、あたり近所を物色しながら歩いて行くうちに、様子ありげな数人づれの旅の者と行違いになりました。行違いになったといったところが、向うから来たのと、こちらから行ったのと、袖摺《そです》り合ったというのではなく、先方は尋常に歩いているが、こっちは天然自然に足が早いものだから、追い抜いてしまって、その途端に見返ると、がんりき[#「がんりき」に傍点]の頭へピンと来たものがあります。
この一行の旅人は、普通の旅人ではない。見たところ、村の庄屋どんが、小前の者でもつれて旅をしているように見えるが、それにしては、万事ががっちりし過ぎている。この中の主人公というものが、田舎《いなか》の旦那らしい風《なり》はしているが、どうして――
がんりき[#「がんりき」に傍点]の第六感で、
「これは大物だわい」
と受取ってしまいました。三井とか、鴻池《こうのいけ》という大家が旅をする時に、よくこんなふうにやつして旅をするといったやつ――こいつは只物でねえ――と見破ったがんりき[#「がんりき」に傍点]は、この点に於て、さすがに商売がらでありました。
これぞ――西国へ行くと言って、急に甲州有野村を旅立ちをしたお銀様の父伊太夫と、その一行でありました。
そこで、がんりき[#「がんりき」に傍点]は、速足をごまかして、わざと一行のあとを後《おく》れがちに慕うことになる。
伊太夫の一行は、悪い奴につけられたということを知らないで、西へ向って急ぐ。
新月は淡く、関ヶ原のあなたにかかっている。
底本:「大菩薩峠16」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年7月24日第1刷発行
「大菩薩峠17」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年8月22日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 十」筑摩書房
1976(昭和51)年6月20日初版発行
※底本では、「…頬かむりをとって、その面《かお》を突き出して」の後に、改行が入っています。
※疑問点の確認にあたっては、「中里介山全集第十巻」筑摩書房、1971(昭和46)年5月27日発行を参照しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年1月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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