ているもんですから、何のことはないお蘭さんの投げた株を引受けて、追敷きを食わされ通し……全くいい面《つら》の皮《かわ》ですわ」
「それを繰返すのは愚痴だ、自分でいま言っている通り、災難と諦《あきら》めて、何もこっちに疚《やま》しいことさえなければ、素直《すなお》に、幾度でもお呼出しを受けるがよい、訊《たず》ねられたらば、知っている通りを洗いざらい返答してしまい、知らないことは知らないと正直に通せばいいのだ」
「そうおっしゃられると、それまででございますけれどもね、これでも人間の端くれでございますから、苦しいと思うこともあれば、癪《しゃく》にさわることもありますのさ。わたしもお蘭さんのように、自由が利《き》く身でありさえすれば、こんなところに、こうしてばかばかしい祟《たた》り目の問屋を引受けてなんぞいるものですか――どうにもこうにも動きの取れないわたしという者の身の上を、少しはお察し下さいましな」
「それは、人の運不運で、やむを得ないことだと言っているのに」
「運不運なんて言いますけれど、それはたいてい意気地なしの言うことですね――しっかりした人は、自分で自分の運を切り開いてしまいますからね。不運のものも運のいいように取返してしまいますからね。早い話がお蘭さん――」
この女はよくよくお蘭さんの身の上が羨ましいものと見える。そうでなければ、よくよく憎らしいものと見えて、一口上げにお蘭さんが引合いに出て来る。
「お蘭さんなんかも、運不運だなんておとなしくあきらめて、この土地にぶらついていてごらんなさい――今頃はどんなことになっているかわかったものじゃありません、それを知っているから、ああして抜け目なく逃げてしまいました。残されたわたしたちこそ全くいい面の皮、お蘭さんの分まですっかり被《かぶ》って申しわけをしなければなりません。お蘭さんさえおいでなされば、わたしなんぞこのたびの事件についちゃ物の数には入らないのですが――お蘭さんの分をわたしが被ってしまって、日日毎日《ひにちまいにち》……ほんとうにお蘭さんという人は、今頃は誰とどうして、どういう了見で、どこの土地を遊び歩いておいでなさることやら、憎らしい!」
福松は歯がみをして、後《おく》れ毛をキリリと噛《か》みきりました。これは当面の兵馬に向けて怨《うら》み言《ごと》を言い立てているのだか、自分よりこの事件に一層直接な当人でありながら、逸早《いちはや》くこの土地を身抜けをして、その飛ばっちりを、すっかり自分に背負わせて行ってしまったところのお蘭さんなる者に向けて、恨みを述べているのだかわからない。
「ほんとに憎らしいのは、あの人よ、お代官の生きている間には、腕によりをかけてさんざんたらしこんでさ、災難の時は自分だけいい子になってあと白浪――わたしなんぞは商売人のくせに、腕もないし、知恵もないし、それにまた憎いのは、あのがんりき[#「がんりき」に傍点]という兄さんよ――なあに、兄さんなことがあるものか、あのおっちょこちょいのキザな野郎、あいつも憎らしいったらありゃしない……」
今度はまた、全く別な方角へ飛び火がして来たらしいが、兵馬は、いかんともその火の手の烈しさに手がつけられない。
七
和泉屋の福松は、がんりき[#「がんりき」に傍点]と言い出してまた躍起となり、
「ほんとに、いやな奴たらありゃしない、三千世界の色男の元締はこちらでございってな面《かお》をして、手んぼうのくせに見るもの聞くものにちょっかい[#「ちょっかい」に傍点]を出したがるんだから、始末が悪いことこの上なし、そうして、御当人のおのろけによると、そのちょっかいというちょっかいが、十のものが十までものになるんだそうだから、やりきれない、キザな奴、イヤな奴――」
福松どのは、がんりき[#「がんりき」に傍点]のことを、噛んで吐き出すように言いだしたけれども、相手が宇津木兵馬だから、あんまり手答えがないのです。
兵馬でなかろうものなら、ははあ、そうかね、そういった色男の本家がこの辺へお出ましになったものと見えますな、ところでその、御当家には、格別の御被害もございませんでしたかね、そのちょっかい[#「ちょっかい」に傍点]とやらの味はいかがなものでございましたか、なんて揶揄《からか》ってみたいところだろうけれども、相手が兵馬だから、そんな軽薄な口を叩くわけにはゆかないのです。手答えが無いだけ張合いも無いと言えば言えるかも知れないが、相手がまたおとなしいだけに、こちらもまた思う存分言ってのけられる自由があると見えて、福松どのはかさにかかりました。
「ほんとにイヤな奴、キザな奴、あのくらいイヤな奴も無いものですけれども、でもわりあいに度胸があるんですよ、お宝の切れっぱなれもいい方でしてね、やっぱり男はね……」
おやおや、また風向きが変って来たぞ。兵馬が黙って聞いていると、
「色男てものには、お金と力は無いものと昔から相場がきまっているのに、あのイヤな奴、妙に色男ぶるくせに、あれで度胸があって、切れっぱなれがよくって、で、口前がなかなかうまいものだから――口惜《くや》しいわ。わたし、どうも、とうからお蘭さんと出来てるんだと睨《にら》んでいるのよ。相手がお蘭さんだからたまりませんわね、あの男前と……口前じゃたまりませんよ――」
福松どのの悲泣がいつしか憤激となって、最初は口でけなしていたがんりき[#「がんりき」に傍点]なるやくざ野郎を、結局、度胸があって、お金の切れっぱなれがよくって、口前がいい、色男の正味を肯定するような口ぶりになってしまうと、今度は鉾先《ほこさき》がお蘭さんなるものの方に向って、しきりにそのお蘭さんをくやしがるものですから、兵馬は自然、過ぐる夜のことを思い起さないわけにはゆきません。
つぶし島田に赤い手絡《てがら》の、こってりした作りで、あの女から夜中に襲われた生々しい体験を持つ宇津木兵馬は、その時のことを思い出すと、ゾッとしてしまいました。あの時、「ねえ、宇津木様、うちの親玉にもたいてい呆《あき》れるじゃありませんか、きのう市場でもって、ちょっと渋皮のむけた木地師《きじし》の娘かなんかを掘出してしまったんですとさ、そうして、今晩から母屋《おもや》の方で一生懸命、口説《くど》き落しにかかっているんだそうですよ。ですからこっちなんぞは当分の間、御用なしさ、見限られたものですね」
それから、自分の枕許《まくらもと》に、だらしのない姿で立膝をしながら、若いのは若いの同士がいいか、また若いの同士では、食い足りないから、油ぎった大年増を食べてみる気になったりするのじゃないか、穀屋《こくや》のイヤなおばさんがどうの、男妾の浅公がどうのと、口説《くど》きたてたあの厚かましさ。
ところでその前の晩、戸惑いをして自分の寝間へ紛れこんだ怪しい奴がある。あれが、どうも、このいけ図々しい大年増を覘《ねら》って来て、戸惑いをしたものとしか受取れない。
「いかにも、そのがんりき[#「がんりき」に傍点]とやらいうならず[#「ならず」に傍点]者が怪しい」
「怪しいにもなんにも……」
福松はいっそう声を立てて、
「ほんとうに、あのお蘭のあまとがんりき[#「がんりき」に傍点]の奴、今頃は、もう疾《と》うに国越しをしてしまって、とまりとまりの旅籠屋《はたごや》で、いいかげんうだりながら――鶏《とり》がなくあずまの方へ行ったか、奈良のはたご[#「はたご」に傍点]や三輪の茶屋なんかと洒落《しゃれ》のめしているか、わたしゃそんなところまでは知らないけれど、残されたこっちこそ、いい面の皮さ」
この女相当の八ツ当りを、兵馬にまともに向けるから、それは上《うわ》の空《そら》に聞き流して、自分は自分としての、このごろの身辺雑事をあれかこれかと空想に耽《ふけ》っている時、外で夜廻りの音を聞きました。
夜廻りの拍子木の音を聞くと、兵馬は膝を立て直し、
「それはそうと、もう時刻も遅い、お暇《いとま》します、冗談はさて置いてそれをお返し下さい」
真剣そのもので、福松がさいぜんから後生大事に抱え込んでいる両刀を指して促すと、福松どのは、一層深く抱え込んで、頭《かぶり》を振り、
「いけません」
「冗談もいいかげんにしなさい」
「冗談ではございません――わたしは真剣に申し上げているんでございますよ」
「では、どうしようと言うんだ」
「今晩はあなたをお帰し申しません」
「帰さないというて、ここは拙者の泊るところではない」
「はい、あなた方のお泊りになるところではございません、あなた様にはほんとうにお羨ましいお宅がおありでいらっしゃいます、でもたまにはよろしいじゃございませんか、今晩はおいやでもこちらへお泊りあそばせな」
「何を言ってるのだ」
「あなたもずいぶん罪なお方ねえ」
「たわごとを言わず、穏かに言っている間に、返すものをお返しなさい」
「ねえ、宇津木様、わたし今晩は大へんしつっこいでしょう、わたしだって張店《はりみせ》のおばさんみたように、こんなしつっこい真似《まね》はしたくはないんですけれど、そうして上げなければあなたのおためにはならないわけがあるんですから、こうしてあげるのよ、今晩は泊っていらっしゃい」
「滅相な」
「あなたはそんなきまじめなお面で、うぶな御様子をなさいますけれど、本当のところは、どうしてずいぶんな罪作り――残らずこっちには種があがっていますから、それを白状なさらなければかえして上げません」
「何か、拙者が後暗いことでもしていると申されるのか」
「ええ、そうでございますとも、あなたという人こそ本当に見かけによらない、イヤな人です、憎らしいお方、もうすっかり種が上っていますから隠したってだめよ」
「そちらに種が上っているのなら、なにも改めて拙者にたずねるには及ぶまい――どれ」
兵馬は苛立《いらだ》って、もう、こうなる上は、手ごめにしても刀を奪い取って差して帰るまでのことだ――と立ちかけた時、
「ア、痛ッ!」
と不覚の叫びを立てたのは、相手の女ではなくてかえって自分でした。
「憎らしい!」
女は今まで両の袂で後生大事に抱きかかえこんでいた兵馬の両刀を、左の片袖だけで抑え換えて、そうして、右の片手をのべると、いきなり、苛立って立ちかけていた兵馬の左の股《もも》のところを――イヤというほど――つねりました。武術鍛錬の兵馬が、もろくもこの不意打ちを食って、「ア、痛ッ!」「憎らしい!」
今晩のこの女は、憎らしい! と、口惜《くや》しい! との連発です。
思うさま不意打ちを食わして、兵馬を痛がらせた福松は、ここで、やや勝ち誇った気位を取り返し、
「それ、ごらんなさい」
何がそれごらんなさいだか、兵馬には一向わからないのを、福松どのは畳みかけて、
「痛かったでしょう――わが身をつねって人の痛さというのがそれなんですから、よく覚えていらっしゃい。あなたという人も、このごろは相応院の離れ座敷で、お安くない世話場を見せていらっしゃるんですってね、相手はお雪ちゃんといって――知っていますよ、知っていますよ。いいえ、お隠しになっても、もう駄目です、そのお雪ちゃんという可愛ゆい子を、あの助平のお代官の手から、助けたり、助けられたりがもとで、お二人が水入らず、近いうちに御両人がまた手に手をとって道行という筋書まで、ちゃんとわたしには読めておりますのよ――憎らしい! 口惜しい! 覚えていらっしゃい」
また刀を一方の袖だけに持たせて、右の手をさしのべて――それは以前よりもいっそう手強く兵馬の股を抓《つま》み上げてやる気で出した手を、今度は兵馬も容易《たやす》くそうはさせません。
「何をなさる」
と言って、その手をぐっと抑えたが、思いの外に軟らかな手ざわりなのに、抑えた兵馬の方がかえってギョッとしました。
八
きまじめな宇津木兵馬は、そこで福松のために、自分とお雪ちゃんとの間が、決してそんなわけのものでないことを説明しました。
それから、お雪ちゃんの立場の気の毒であることをよく話して聞かせ
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