と立ち上って、寝具をのべて――それは以前、机竜之助が隠れていて、かわいそうに貸本屋の政公を手ごめにした一間なのです。
 そこで手早く衣類を改めて枕について、まだ眠りもやらでいる時分のことでした、外で、
「モシ」
 これには兵馬も聞き耳を立てないわけにはゆきません。
 いったん枕へつけた頭もろともに、半身を持上げていると、
「モシ」
 戸外《そと》でするは女の声。
 もし兵馬が竜之助であったならば、これは当然、政公が甦《よみがえ》って恨みに来たものと聞いたでしょう。或いはまた兵馬が神尾主膳であるならば、藤原の幸内が迷って出たと思うよりほかはないような突然の声でしたけれど、物の怨霊《おんりょう》の恨みを受ける覚えのない兵馬は、その現実の声に耳をすますと、
「宇津木様、ここ、あけて頂戴な」
 やはりお雪ちゃんではなかったのです。
「福松ではないか」
「はい――早くさ、早くあけて頂戴よ」
 兵馬は全く機先を制せられてしまい、あけるもあけないもなく、もう起き上ってしまって、やえん[#「やえん」に傍点]に手がかかると、雨戸がからりとあきました。
「何しに来たのだ」
「御免なさいね、宇津木さん」
 
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