こでいい心持に舟を漕ぎはじめたことは事実なんだが――それにしても奥の一間は……

         三十

 奥の一間のことは問題外として、白河夜船を漕いでいた宇治山田の米友が、俄然として居眠りから醒《さ》めました。
 それは、たしかに、たった今、軒を伝うて颯《さっ》と走ったものがあったからです。
 つまり、今時《いまどき》、このところを走るべからざるものが走ったから、それで米友が俄然として眼をさましたのです。走るべきものが走ったのならば、米友といえども、こんなに慌《あわただ》しく居眠りから醒めるはずはありません。
 しからばこの際、このところを、走るべきものと、走るべからざるものとの差別は如何《いかん》――これはむつかしい。
 天地間のことだから、いつ何物が、いずれより来《きた》っていずれへ走り去るか知れたものではない。現にこの胆吹山にも、相当の飛禽走獣がいるに相違ない。猛禽はさいぜん、子を索《もと》め得て、かの古巣をさして舞い戻ったが、そのほかに地を走る狐兎偃鼠《ことえんそ》の輩《やから》もいないはずはない。それらのものが深夜、軒を走ったからといって、さのみ驚くには当らないでしょう
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