もお銀様に向って挨拶は無く、お銀様もまた、最初から、とんとこの方はおかまいなしの体《てい》でしたが、ややあって、静かに歩みを移して、その閑却せられた一方の墓穴の方へと近づいて来ますと、さいぜんの穴の中から兵作の声で、
「おーい、若衆《わかいしゅ》さん、今お嬢様がお前の方へいらっしゃるから、よくお話をして上げてくんな」
 そうするとこちらの穴の中から、若いやさ男の声として、
「はーい、承知しました」
と返事をするのです。はて、おかしいな、こっちの穴の中の兵作は、穴の中を深く掘り下げていながら、自分がおもむろに歩みをうつして一方の穴へ近づいて行こうとするのを、どうして認め得たろう。そうして、やはり穴の中から一方の相手に向って、頼まれもしない先ぶれを試みている。お銀様は面妖《めんよう》な相手共だと心に感じながら、その一方の穴へ近づいて、ほとんど中を覗《のぞ》きこむばかりにして見ると、
「お嬢様でございますか」
 穴の下から、若いやさしい男の声なのです。こっちも、自分が来たのを、穴の中に見ず聞かずにいながら心得ているらしい。しかも、最初は兵作にしてからが「奥様」呼ばわりであったのが、ここへ来ると、もう「お嬢様」に変化してしまっている。しかし、もう、のっぴきならないからお銀様が、
「わたしです、そういうお前は誰ですか」
 こう言って返事をすると、穴から噴《ふ》き出しでもしたように、若いやさ形の男が現われて、いきなり前の兵作がしたように、頬かむりをとって、その面《かお》を突き出して莞爾《にっこり》と笑ったところを見ると、
「あら、お前は幸内《こうない》じゃないの」
 この時はお銀様が狼狽《ろうばい》して、驚愕の声を上げました。
 本来ならば、たとえ頬かむりを取ってみたところで、この宵闇では、知った面であろうとも、なかろうとも、急にそれとは気のつくはずはないのですが、打てば響くようにお銀様が、はっきりと音《ね》を上げました。
「お嬢様、お久しぶりでございました」
「まあ、幸内――」
「お嬢様、ほんとにお久しぶりでございましたねえ」
「お前、どうして、こんなところに、何をしているの」
「はい、さきほど、兵作さんからお聞きの通りでございまして、誰もかまい手がないものでございますから、つい、おてつだいをして上げる気になりました」
「お前のその痩腕《やせうで》で、そんなことにまで頼まれなければいいに」
「でもお嬢様――わたしのようなものが頼まれて上げなければ、誰も頼まれてやる人はありませんもの」
「でも、もういいから、おやめ――お前の代りに、誰か人を雇って来て上げるから」
「有難うございます、では、そういうことに願いまして、わたしは、これからお嬢様のおともを致しましょう」
「そうしておくれ」
「それでは、あの井戸の傍へ行って手を洗って参りますから」
「わたしが洗って上げるからおいで」
「有難うございます」
 そこで、お銀様は夢うつつのようになって、幸内を導いて行くと、墓地の中ほどに車井戸がある。
「わたしが水を汲んで上げるから、手をお出し」
「済みません――」
「なかなか深い井戸だね」
「なかなか深うございます、御用心なさいませ」
「さあ、もっと汲んで上げるから、面《かお》も、足も、洗ったらいいでしょう」
「まことに恐れ入ります」
「幸内」
「はい」
「こうして車井戸の水を汲み上げていると、あの昔の、躑躅《つつじ》ヶ崎《さき》の古屋敷の時のことを思い出さない?」
「思い出さないどころではございません、もうここへ参ります時から、頭の中がその時のことでいっぱいでございます」
「神尾主膳という奴は悪い奴ね」
「悪い、悪い、極悪人でございます」
「かわいそうね、お前は」
「お嬢様、もう、それをおっしゃって下さいますな、おっしゃらなくても、幸内の魂は、それでおびやかされ通しでございます」
「わたしが悪かったねえ、堪忍《かんにん》しておくれ」
「いいえ、お嬢様がお悪いのじゃございません、伯耆《ほうき》の安綱が悪かったのでございます」
「もう、それも言うまい。さあ、面と手をお洗いなら、これでお拭き」
「いいえ、手拭を持っておりますから」
 幸内は、最初頬かむりをしていたところの手拭を取り出して、手と、面と、足とをよく拭って、そこに置き並べた草履《ぞうり》をつっかけて、はしょっていた尻をおろしました。その途端にお銀様が井戸の流しの一方を見て、
「幸内、あれは何?」
「あれが、その、今お話の、二人の亡骸《なきがら》でございます」
「え」
 お銀様は目をみはりました。

         六十五

「あれが、さきほど兵作さんがお話しになりました、罪の男女の亡骸なんでございます」
 二人が目を合わせて注視したその井戸側の一方に、薦《こも》をかぶせて、犬か猫なんぞのように
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