今や双方の先陣が、水門口の天王山を双方から取詰めて、竹槍の先が火花を散らして、両岸に血の雨の洪水を切って落そうとする――瞬間に、いつ、どこから、いつのまに身を現わしたのか、その天王山の中央の水門の上へ、すっくと身を現わした一つの人影を米友が認めました。
 それは、米友が認めたばかりではありません、万人ひとしく注意の焦点でありましたから、誰ひとりとして、その一個の人影を認めないものはなかったろうと思われます。それのみならず、認めるには、ちょうど都合のいいように、地の利もよかったし、第一、その人影そのものの風采《ふうさい》が、かっきり、あたり近所を劃しておりました。
 というのは、その一つの物形だけが竹槍蓆旗《ちくそうせっき》の両岸の人民たちと違って、鮮かにさむらいのいでたちの、しかも寛濶な着流しで、二本の大小を落し差しにしている風采そのものが示します。
 不意に現われたこの一個の人影が、さしもにいきり立った竹槍組の先陣の気勢をも大いに緩和したのか、妨害したのか、とにかく、決死的に勢い込んだ先陣の槍先が鈍《にぶ》ったことは確かであります。
 米友も、眼を拭ってそれをながめました。米友の立っている地点からは、かなり離れていることですから、さながら人形芝居を遠見している如く、影絵の拡大を日中見せられている如く見えるのですが、気のせいか米友の眼で――遠目にどうもそこへ現われたさむらいが、見たことのある――と言っても古い昔のことではない、最近に、そうそう、長浜の湖辺で、釣を垂れていたあの浪人者――あれに似ているように思われてなりません。どうも物言い、恰好《かっこう》、それだ。それだとすれば、いつ、どうしてあすこへ駈けつけて来たのだろう、こっちの岸から駈けて行ったとも見えないし、あっちの岸から走りついたとも気がつかなかったが――さては隠れていたな、あの水門の蔭あたりに、ぴったりと身をひそめていたのだな。うむ、そうだ、こういうことが起るだろうとかねて心配していたものだから、その時の用心にと、あの水門の蔭あたりに隠れていて、それから双方の仲裁にかかろうという段取りだ。なるほど、そうありそうなこった。
 この仲裁ぶりが見ものだなあ――米友はじりじりしながら、固唾《かたず》を呑みました。

         五

 しかし、仲裁ぶりを見るといったところで、ここは遥かに隔たっているから、言語はむろん聞えず、ただ遠距離から活動写真を見ていると同様で、彼等の動作だけがわかるのみであります。しかし、動作だけにしてからが、銀幕の上に持廻りのすれからし物を見せられると違って、白日の下《もと》に、カッキリと実演によって見せられるのだから、要領を得ることは手にとると同様です。
 双方から勢い込んだ竹槍の先陣が、この水門口のところで浪人姿のさむらいに支えられました。浪人姿のさむらいは、手ぶり、身まねを以て彼等に懇々と理解を説いているらしい、その動作を見ると、言葉はむろん聞えないけれど、かなり歯ぎれのよい弁舌家であるらしい。
 或いは叱り、或いは教え、或いはなだめ、或いは口説《くど》いている様子は、活動俳優そのものと違った真剣味がありますから、自然、米友も身を入れて見ていることができるのであります。まして当面、その理解を聞き、身ぶりを受けている人数にとっては、なお一層身に沁《し》みる程度が深いと見えて、さしも意気ごんだ竹槍の先陣たちも、おのずから、いくらかずつ意気込みが緩和されて行く気分も、米友の方へ打って響くようにうつります。
 そのうちに、双方から続々と後陣が詰めかけて来る。先陣の気勢によって、それもみな幾分か殺気が緩和されて来《きた》りつつあるもののようです。
 で、竹槍、鍬《くわ》、鋤《すき》の類をはじめとしての得物《えもの》は、それぞれ柳の木に立てかけられたり、土手の上に転がされたりして、双方が素手《すで》で無事に入り交って、といっても中心に絶えずその理解を説いている浪人姿のさむらいを置いて、おのおのの主張を口舌で取交しはじめていることも、ハッキリわかりました。
 つまり、要領はこうなんです、右の浪人姿のさむらいが現われて、
「君たち、そう一途《いちず》に得物を持って殺気をたててはいかんじゃないか、水が切れたからと言って、血の雨を降らすなんぞは愚かな儀じゃ。じゃによって、一応双方から委員を選んで、評議をこらしてみちゃどうだね。本来、責任は天にあるのじゃ、天が雨を降らせてくれないのだから、恨みがあれば天へ持って行くべき筋じゃ。喧嘩をするとすれば、天を相手に喧嘩をしなければならないものを、それを人間同士がなすり合って、血の雨を降らそうということはいかん。そこでじゃ、この水門の水を、穏かに、相談ずくで、適度に分配することにしちゃどうだ――たとえば、朝の何時までは甲
前へ 次へ
全110ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング