るのだから」
「飲むのは辞退しないよ、ただ、一杯飲むごとに気が滅入る」
「まだあんなことを言ってやがる、勝手にしな。ところで、こっちも人に飲まれたり、愚痴を聞かされたりばっかりしていてはうまくないから――これより、思うさまお相伴《しょうばん》と致して」
 丸山勇仙も、この辺から板前を辞して、自分も会席へ進出しました。

         十四

 ところが、自分が飲み出してみて、丸山勇仙が、
「仏頂寺――」
「うむ」
「旨《うま》いなあ――この酒は」
「旨いな」
「松茸も旨いだろう」
「旨いよ」
「浮きな」
「浮かない」
「では、僕が大いに浮いて見せよう」
 丸山勇仙は、浮かない仏頂寺を浮き立てるつもりで、自分がぐいぐいと手酌《てじゃく》で盃を重ねながら、ようやく浮き立とうとつとめたが、気のせいか誂向《あつらえむ》きに浮いて来ないらしい。
 そこへ仏頂寺が、また横の方から、すさまじい声で呼びかけました、
「丸山――」
「何だい」
「そもそも我々は、これからどこへ向って行こうというのだな」
「君の郷里、越中国|氷見郡《ひみごおり》へ出ようということになっている」
「駄目だ、駄目だ、仏頂寺がこの仏頂面を下げて、今更のめのめと故郷へなんぞ帰られると思うか」
「今それを言い出されちゃ遅い、では、この辺で立戻りの弁慶とやらかすか」
「いったい、どこへ立戻るんだ」
「さあ、そいつはお前の方から聞きてえんだ、やむを得ずんば江戸へ引返すかな」
「江戸――江戸へ出て、あのやかましい老爺《おやじ》の篤信斎の髯《ひげ》を見るのは癪《しゃく》だ」
「では、どうだ、長州へのし[#「のし」に傍点]ては――」
「長州は今、尊王攘夷《そんのうじょうい》で、国を寝かすか起すかと沸いている、あんなところへ、我々は飛び込めない」
「だから、大いに勇士の来ることを期待している、君でも行けば、この際、大いに歓迎するだろう」
「なかなか」
「奇兵隊を率ゆる高杉晋作なども、まんざら知らぬ面でもあるまいから、訪ねて行ったら面倒を見てくれるだろう」
「だが、仏頂寺も面がすた[#「すた」に傍点]ったからな、ぬけぬけと出て行って、仏頂寺来たか、貴様、剣術が出来ても、心術がなっていないなんぞと、高杉あたりにあの調子でさげすまれるのが癪だ」
「では、どこへ行く」
「さあ、それだ」
「いったい、我々はこれからどこへ落着くのだ
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