方がいい」
「だが、丸山――酒は旨いんだよ、肴は申し分ないんだが、この胸だけが、だんだんと苦しくなる」
「病気でも起ったのかい――鬼の霍乱《かくらん》てやつで……」
「そうじゃない――病気なんていうやつは、本来、仏頂寺の門前を避けて通ることになっているのだが、今日はなんとなく気がふさぐよ」
「困ったもんだな、天気はこの通りよしさ、ところは名代の小鳥峠の上で、紅葉を焚いてあたためた酒を飲みながら、手取りの松茸《まつたけ》のぴんぴんしたやつを手料理、これで気をふさがれちゃあ、土瓶も松茸も泣くだろう、第一、板前の拙者がいい気持はしないや、浮きなよ、浮きなよ」
「浮かない、どうもこの胸が、一杯飲むごとに沈んで行く、といって、酒はやっぱり旨《うま》いのだ、肴《さかな》に申し分もないし、天気はいいし――」
仏頂寺は、盃を噛みながら四方《あたり》を見廻す。至極晴れやかな小鳥峠だけれども、仏頂寺に見廻されると、急に白ちゃけてくるようになる。丸山はその気を引立てようとでもするかの如く、
「不足を言えば、たぼ[#「たぼ」に傍点]が一枚欠けているだけのもんだ、この席へ、いま聞いたような咽喉《のど》が一本入れば、それこそ天上極楽申し分ないのだが――望月《もちづき》のかけたることのなしというのはかえって不祥だよ、この辺で浮きなよ、浮きなよ」
「浮かない――一杯飲めば飲むだけ気がふさぐ」
「弱ったな、こうして働いて御馳走をしてやって、その御馳走を食わないならいいが、さんざん食い且つ飲まれながら――一口上げに気がふさぐと言われたんじゃ、全く板前がやりきれない」
と言って、丸山勇仙がつまらない面《かお》をして、仏頂寺の面を見なおす。
「丸山、つまらねえな」
「何が……」
「つまらねえよ」
「何が、どうして」
「酒を飲んでも浮ばれなくなったんじゃ、もう見きり時だ」
「いやに湿《しめ》っぽいことを言い出したもんだな、しかし……」
と、丸山も少しく思案してみての上で、
「そうだっけな、李白の詩に、酒を飲んで愁《うれい》を銷《け》さんとすれば愁更に愁う、というのがあったっけ、あれなんだな」
「どれだ」
「まあいいや、酒というやつが、必ずしも人を浮かすときまったもんじゃないんだから、何でもいいから飲みな仏頂寺、遠慮なく飲みな、そのつもりで、この松茸と相応するほどもろみ[#「もろみ」に傍点]が仕こんで来てあ
前へ
次へ
全220ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング