から、これから北国へ逃げるのが一番ですわ。それには白山行者の真似《まね》をして、加賀の白山へ逃げるつもりなのよ、それが一番かしこい仕方だと思ってよ。そうして、わたし、ちゃあんとその道筋を、自分で絵図にかいてこの通り持っておりますのよ」
と言って、女は懐中から、一枚の絵図を取り出して臆面もなく兵馬の前にひろげました。
なるほど、この女自身が、人に秘めて、手がけたものと見えて、絵もなっていないし、文字のまずいこと、一目でわかるけれども、この際、恥かしがったり、恥かしがられたりする場合ではないと見え、兵馬は燈を引寄せて、光をその図面の上に落しました。そうすると女が言う、
「加賀の白山様へはわたくしも、生《しょう》のあるうちに一度は御参詣をして置きたいと思いました、御一緒に参りましょうよ」
危険区域を脱出したい心境が、早くも白山参詣の心願とごっちゃになってしまっている。
兵馬は何とも答えないで、その女の描いた不器用な絵図と、まずい字面《じづら》を、じっとながめている――そうしてかなりながい時間の間、兵馬が沈黙しているものですから、
「あなた、何を考えていらっしゃるのよう」
と言って、女が嫣然《にっこり》笑って、兵馬の膝をグリグリと突きました。
さきほどつねられた時よりも痛くはないが、兵馬はまたぞっとして、それを振り払おうとした手先が女の手に触れると、そのさわり心が以前の時よりも軟らかさを感じました。図々しい女は、兵馬の膝に置いた手を引こうともしないのみか、兵馬の手を握り返しながら、
「よう、あなた、何を考えていらっしゃるの――物事は成るようにしか成りゃしませんから、クヨクヨなさらないように……いったい、あなたが薄情で、そうして小胆でいらっしゃることは、中房のお湯で、ようくわかり過ぎるほどわかっているのよ。けれど、それがまた、あなたはおいやでも、こうして飛騨の奥山で、退引《のっぴき》ならずお目にかからなければならないようになったのも浅からぬ御縁というものじゃなくって――浅間の温泉では、ずいぶん失礼しちゃいましたわね。でも、どうも、あの時から、あなたとわたしとは、離れられない御縁――というわけじゃなかったのか知ら。ですから、あとになり、先になり、おたがいにこうして、よれつもつれつして行くのが乙じゃなくって、考えてみるとおたがいは、前世でいい仲を裂かれた許婚同士《いいなず
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