はもう見放した女だ、何を言って来ようとも、わしがところへは持ち込むなと申してあるのに」
「それは承知いたしておりますが、今度のお手紙の要件は、どうしても、わたくし一個では計らい兼ねます、ぜひとも、旦那様のお耳にお入れ申した上でございませんと」
「生死《いきしに》のほかには言ってもらわないがよい、あれはあれだけのことになって、身上も分離してお前にあずけてある、お前の方で取計らいきれないということはあるまいが」
「それがでございます――万事は、わたくしがお計らい申して参りましたが、今度のお手紙の要件ばっかりは、どうしても計らいきれませぬ、と申しますのは、このお嬢様のお手紙でございますが、一応お目通しごらんくださいませ」
「見ないでもいいよ、ではとにかく、その要領だけを聞いてみましょう」
「では、このお手紙の要領をお話し申し上げますと……」
 太平は、伊太夫に近く少しにじり[#「にじり」に傍点]寄って、ふし目になって手紙を見つめながら、次のように語り出しました。
「あのお嬢様のこのお手紙の要領と申しますのは、自分は今度、近江の国の胆吹山の麓へ地所を買ってそこへ屋敷を営むことになったから、その費用を送ってもらいたい、それも少々ずつでは、おたがいにめんどうだから、この際、わけていただいてあるお嬢様の分の財産をそっくりもらいたい、不動産の方は追って金に換えて欲しいが、貯えてある金銀だけは一文も残さずに、そっくり近江の胆吹山の麓のこれこれへ送り届けてくれと、こうおっしゃってなのでございます」
「ナニ、あれの分の財産を、そっくり残さず送れと――うむ……」
 伊太夫も、さすがに腹へ深く息を飲みこんでしまいました。

         七十八

 なるほどこれは、番頭一人の頭で取計らいきれぬというのも無理がないと思ったのでしょう。
 正式に勘当したというわけではないが、かりそめにも、親でない、子と思うな、と言い合って別れてから、父子の間には、わたることのできないほどの溝が掘られてあるのでありました。
 そうして、決定した伊太夫は、それでもこの我儘娘《わがままむすめ》の将来のためにとて、財産のうちを分割して、あれの物として頒《わか》ち置いて、その保管を番頭に托し、必要ある毎には、大体に於てあれの申し出通り送ってやれ、ことに旅などへ出ては、入費に糸目をつけないでよろしい、といったような暗示
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