ここで逃《のが》い[#「い」に傍点]ては――」
と気を取り直し、また鉄砲を肩につけた。猿はじっとこっちを向いて、なおも一生懸命に拝んでいる。与次郎はたまらなくなって、また鉄砲を投げ出した。
ちょうど与次郎の家にも、生れて間もない赤ん坊があった。与次郎は自分が家を出かける時、その赤児と別れるのが、なんぼ辛《つら》かったか知れなんだのを思い出し、人に物を言うように、
「なア猿、かわいそうどう[#「どう」に傍点]けんど、ぜひおれに命をくりょ、殿様のたってのお望みで仕方ンない、ちょうどわしにもお前ぐれえの赤児がある、無理もないこんどう[#「こんどう」に傍点]、お前の子供はおらがのおしゅんといっしょに、おしゅんのアンマ[#「アンマ」に傍点](乳)をくれてきっと立派に育ててやる、そんだから、な、頼むからわしに命をくりょ」
こう言うと与次郎は、三度目の鉄砲を取り、心を鬼に取り直してグッとひき金を引いた。
猿は見事に喉をぶち[#「ぶち」に傍点]ぬかれてバッタリと倒れた。与次郎は自分も貰い泣きをしながら、泣き叫ぶ赤児をようやく親猿から引離してヒトコ[#「ヒトコ」に傍点](懐ろ)へ入れ、親猿をショって山を下った。そうしてその猿を殿様に差上げると、殿様からはたくさんの褒美《ほうび》を下された。
これから与次郎は子猿を家に連れて帰り、女房にも、この猿はこれこれこういうわけで連れて来とう[#「とう」に傍点]だから、大事に育てろとよく言いつけた。
猿の子もはじめのイトは、乳を欲しがって泣いて困ったが、そのたびに与次郎の女房がおしゅんの乳を分けてくれ、だんだん馴れてイカくなった。おしゅんとヒトツトシだが、おしゅんがまだ人の見さかいもつかぬうちに、猿の子はもう木にも上れば、しまいにはおしゅんの子守までするようになった。そうしてその子猿も、やはり手首から先が白かったので、与次郎夫婦は、名も母親と同じに「手白、手白」と呼んで可愛がった。
三つにもなると、手白は全くおしゅんの子守をよくしてくれるので、おしゅんの母親は、手白におしゅんを預けると、いつも安心していろいろの仕事ができた。
ある日のこと与次郎が、いつものように山へ行った後、母親はおしゅんに湯でも浴びさせようと、釜で湯を沸かし、半槽《はんぞう》(盥《たらい》)にその湯を汲んでおしゅんを入れ、自分は子の傍で洗濯をしていたが、
「手白、
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