んですよ、正直のところ」
「では先生、禅学のお方がよくおっしゃる、仏心鬼手なんておっしゃいますけれど、先生のは、それと違って鬼心仏手なんですね」
「違えねえ――」
と道庵がまた、額を丁と打ちました。

         五十六

「違えねえ、愚老なんぞは、その鬼心仏手というやつで、心にもねえ人生かしをして来てるんだが、日蓮上人も言ってらあな、身は人身に似て実は畜身なり――」
 御遺文集のどこから、そんな文句を引っぱり出したのか知れないが、ここで道庵先生が、日蓮上人を引合いに出して来まして、
「だがな、人生かしばっかりして来ているというわけじゃねえんだ、ずいぶん人殺しもやってらあな――およそこの道庵の手にかかって、今日までに命を取られた奴が……」
 ここで道庵十八番の啖呵《たんか》を切り出しました。知っている者はまたかと思うでしょうが、それを知らないお雪ちゃんは、初耳のつもりで、ついついそのたんか[#「たんか」に傍点]を聞かされてしまわなければなりません。
「およそこの道庵の手にかかっては、まず助かりっこは無《ね》え、今日までに、ざっと積っても、道庵の手にかかって命を落した奴が二千人は動かねえところだ、当時、この物騒な時代に、人を斬ることにかけては武蔵の国に近藤勇、薩州に中村半次郎、肥後の熊本に川上|彦斎《げんさい》、土佐の高知に岡田以蔵――ここらあたりは名だたる腕っこきだが、道庵に向っちゃあ甘いものさ――およそ、道庵の匙《さじ》にかかって助かる奴は一人も無え、たまに助かる奴なんざあ、まぐれ当りなんだよ」
「ホ、ホ、ホ、ホ」
 お雪ちゃんだけは興を催して、道庵先生のために笑ってやりました。
 右のような自慢は、道庵としては、もう犬も食わない自慢なんですが、お雪ちゃんにとっては新しいのです。そこで、お雪ちゃんの心持を喜ばせたと見ると忽《たちま》ち、道庵が附けのぼせがしてしまいました。ここで、また一つ受けさせてやろうという気になったのがいけません――そうして物々しく、
「ね、お雪ちゃん、本当でしょう、道庵の言うところは欺かざるものがあるでしょう。でね、こういう話もあるんだからひとつ聞いて置いていただきてえ、自慢じゃあねえが、道庵そのものの生地《きじ》を見ていただくためには、恥を話さなけりゃあわからねえ――道庵のお得意先に、ちょうどまあ、年かっこうも、お雪ちゃん、あなたぐら
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