したのだ、お角の方寸で我々をその筋へ密告したのに違えあるめえ――そうだ、道庵は袋の鼠、お角こそ大伴《おおとも》の黒主《くろぬし》、あいつが万事糸をひいている」
 そこで、この一まきは、釈放されるや否や、血眼で大津方面へ飛んで返り、お角の根拠をついたが、そのお角は一足先に遊山舟であの通り、湖面遥かに浮んでしまった。そこでこちらは岸に立って足ずり――という段取りであったことがあとでわかりました。
 しかし、この連中、一度は足ずりをして残念がったけれども、やがて談合が調《ととの》うと、二はいの船を買い切って船装いをすると共に、これに分乗して、あわただしく湖中へ向けて乗り出したのは、果してお角の船を追いかけるつもりか、或いはなお身辺の危険を慮《おもんぱか》って避難するつもりか、その挙動だけを以てしては、真意のほどはわかりませんでした。

         五十四

 胆吹の上平館《かみひらやかた》の出丸では、道庵先生と、お雪ちゃんとが、たちまち打ちとけてしまいました。
 道庵は、お雪ちゃんを前にして炉辺に坐り込むと、忽《たちま》ち左の手を口のあたりへ持って行って、妙な手つきをして、とりあえず一杯やりたいのだが代物《しろもの》はないか、という意志表示をしました。
 自分の身体《からだ》から、この方の気が切れると、陸《おか》へ上ってお皿の水をこぼした河童同様になって、自滅するほかはないという説明をも附け加えると、お雪ちゃんが心得て、本館の方へ行って、不破の関守氏から一樽を頒《わか》ちもらって来て道庵に授けたものですから、そのよろこびといっては容易のものではありません。
 すぐさまそれを燗《かん》にしてもらってちびりちびり試むると、その酒の芳醇《ほうじゅん》なこと、こんなところへ来て、こんないい酒を恵まれようとは全く予想外のことでしたから、道庵の魂が頂天に飛びました。
 それから、お雪ちゃんという子のこの好意が、ばかに身にしみて嬉しくなると共に、話をすると、頭がよくて理解があり、それに知識慾もあって、相当の受けこたえができる。それに人のもてなしに愛想があって、親切を極めるものですから、道庵が重ねて嬉しくなって、この娘さんのためには、また自分の好意を傾けて、相手になってやらなければならないと考えつつ、しきりに盃と会話とを進めています。
 お雪ちゃんの方もまた、この先生が飄逸《ひょう
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