、こうして弁信から、「物を承りたい」と呼びかけられた当面には、何か相当のものが存在していなければならないはずなのです。
果して、有りました。有ってみると、かくべつ珍しいものではありませんでした。
それは、今も言った弁信が、杖を立てて踏み止まったところから、ある僅少の距離を隔てて、荒草の間に蟠踞《ばんきょ》していたところの巨大なる切石のはざまにうずくまって、丸くなって寝ていたところの一つの動物があったのですが、それはちょうど、弁信の立っているあたりの地点の背面からは見えないのみならず、前へ廻って見たところで、丈《たけ》なす荒草と、切石というよりも巌と巌との間と言った方がふさわしいほどの、岩角のはざまにはさまって眠っているのですから、わざわざ探さない限り認められようはずがありません。且つまたこの動物は、この絶対の避難地とも安全地帯とも言える穴蔵《あなぐら》の中で、いとも快き眠りを貪《むさぼ》っているものですから、寝息とても非常に穏かなもので、昼寝の熟睡に落ちているのですが、弁信の第六感に逢ってはかないませんでした。
「モシ――お仕事中をおさまたげして相すみませんが、少々物を承りたいのでございますが」
二度まで繰返して、それから、とんと一つ杖をつき返してみました。その杖の音にはじめてこちらの動物が夢を驚かされたのでしょう、むっくりはね起きて、
「なに、なに、何だって、誰か何か言ったのかい」
動物が、むっくりと巌角の間から身を起して、こう言って、キョトキョトと眼を見廻したことによって、単なる動物でないことがわかりました。
巌とはいうけれども、本来、ここにこういう岩石が構成されているという地質のところではないのですから、何かその昔の、相当宏大なる建築の名残《なご》りでなければならないところの巌と巌との間にはさまって、快眠を貪っているところだけを見れば、誰にも動物! むじなとか、狸とか、或いは穴熊とか言ってみたくなるでしょうが、こうしてむっくりはね起きて、その瞬間、歯切れの悪くないタンカを飛ばしたところを見れば、もちろんこれも動物の一種には相違ないが、その意外なる存在に少々驚き呆《あき》れしめる。一方の小法師はその図を外さずに、
「あの――少々物を承りたいのでございますが、この辺にりんこ[#「りんこ」に傍点]の渡しというのがございましょうか。わたくしは、その渡しから竹
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