りに痛々しいものがある。それにまた、江州長浜という土地は、昔は錚々《そうそう》たる城下の地であったが、近代は純然たる商工都市になっている。そうして同時に信仰の勢力がなかなか侮《あなど》り難いものがある。うっかり坊主を侮辱して、現世罰の祟《たた》りを受けてもつまらないと感じたのか、そのことはわからないが、足軽がとうとう棒を投げ出して、弁信の無事通過を許さざるを得なくなりました。
五十一
しかし、どこをどうして来たか、そのうちに弁信は湖岸の一部へ出るには出ました。
そのたずねていたところの、りんこ[#「りんこ」に傍点]の渡しというのが、果していずれのところにあって、その乗合船の出発の時間がいつであるかということの観念はないらしいが、とにかく船着だから、水に近いところにあるという判断には間違いなく、さればとりあえず湖の岸へ出ることによって、目的地に当らずとも遠からぬ地点に達していると信じてはいるらしい。そうして湖岸をめくら探しにぐるぐる廻っているうちに、瓢箪《ひょうたん》のくびれたような地点をとって、岬と覚しい方面へずんずん進んで行ったのでありましたが、さすがの弁信もここでは少々勘違いを演じたと見え、岬の突端の方を当てにして進んで行くほど物淋《ものさび》しくなって、草深くなって、そうして木立さえ物々しくなるのでありました。通常、山へ向っては奥深く、水へ向っては殷賑《いんしん》を予想されるのでありますが、今はそれが裏切られて行くような筋道にも、弁信はさのみ失望しなかったと見えて、その草叢《くさむら》の中を進み進んで行きますうちに、ある巨大なる切石が置捨てられてあるところで足を止めました。
「モシ――」
と、そこでまた突然と、物に向って呼びかけたのですが、無論、誰もいないのです。見渡す限り、この荒園のようになっている木立の間から、湖面が渺《びょう》として展開されているのを見るには見るが、そのあたりは全く人気のない荒涼たる湖岸の地となっているところで、弁信が足をとどめて聞き耳を立てて後、「モシ――」と言ったのは、前例によって見ると、何ぞ相当に人臭いものをかんづいた故にこそでしょう。しかし、手答えはありませんでした。
「モシ――少々物を承りたいのでございますが」
明眼《めあき》の人の眼は外《はず》れても、弁信の勘の外れた例のないのを例とすることによって
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