るのでありまする」
「ははあ。それはそうと、拙者もその長浜まで参りたいと存ずるのだが、道がちと不案内でしてな、御一緒に願われまいか」
黒い姿は存外静かに、物やさしい頼みぶりでしたけれども、それだけにどこか、つめたいところがあり、いっそう無気味なる物言いと受取れないではないが、提灯《ちょうちん》の賢母はいっこう物に疑いを置くことを知らぬ人と見えて、
「それはそれは、長浜はあの通りつい眼の下に見えておりまするが、ここからはまた、道順というものもござりまして、それは私共がようく心得ておりまする故、失礼ながら御案内をいたしましょう」
「では頼みましょうか」
そこで、提灯がまた動き出すと、黒い姿もむくむくと動いて来て、母と子との間に割り込むというよりは、二人が中を開いて、この人を迎えるような態度をとり、そこで提灯の母が先に、十二三になる凜々《りり》しい男の子が殿《しんがり》という隊形になりました。
しかしまた、これでは送り狼を中に取囲んで歩き出したようなもので、一つあやまてば、二つとも一口に食われてしまいはしないか。事実上、そういう隊形になっていながら、気のいい母と子は、一向、懸念も頓着も置かないのは、送り狼そのものを眼中に置かぬ狼以上虎豹の勇に恃《たの》むところがあるか、そうでなければ全然、人を信ずることのほかには、人を疑うということを知らぬ太古の民に似たる悠長なる平民に相違ない。
そこで、この三箇が相擁して、胆吹から長浜道へ向けて、そろりそろりと歩き出しました。
そうして、また途中、極めて心置きなき問答が取交わされました。
「どちらからおいでなされた」
と黒い姿の方は、相変らず存外打ちとけた話しかけぶりでした。提灯の賢母は最初からあけっ放しの調子で、
「尾張の国の中村から参りました」
「尾張の中村――」
「はい」
「それはずいぶんと遠方ではござらぬか」
「左様でございます、ここは近江の国、美濃の国を一つ中にさしはさんで、これまで参りました」
ついぞこの辺の里の女童《おんなわらべ》の夜明け道と心得ていたが、尾張の中村から三カ国をかけての旅路とは、ちょっと案外であった。
「それはそれは、なかなか遠方からおいでだな。そうして、長浜へは何の御用で?」
と黒い姿。
「あれに親戚の者がおりまして」
「親戚をたずねておいでなのですか」
「はい、木下藤吉郎と申します、あれが今
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