最中であるにかかわらず、ちょうどこの前後の時、一つの生ぬるい、だらしのない叫び声が、思いがけない方角から起ったのは――
「頼むよう、助けてくんなよう、人殺し――」
 なんという生ぬるい、だらしのない声だろう。だが、明瞭に聞き取れる言葉そのものの綴りは、頼むと言い、助けてくれと言う。ことに、人殺し――に至っては、もう人間の危急として、これ以上の絶叫は無いのです。然《しか》るにもかかわらず、ここへ響いて来る音調は、こうも生ぬるい、だらしのない、歯切れの悪い音調なので、むしろ、人をばかにしているようにしか聞き取れない。
 こんな生ぬるい、だらしのない、歯切れの悪い絶叫は、いかに九死一生の場合とはいえ、人はむしろ助けに行く気にならないで、ザマあ見やがれ――と蹴《け》くり返したくなるほどの生温《なまぬる》い、だらしのないものでありました。
「頼む、頼む、おたのん申します、男一匹がこの場に於て、生きるか死ぬか、九死一生の場合でげすから――」
 ちぇッ――いよいよ以てたまらない。聞けば聞くほど生温い、だらしのない音声だ。といって、全く聞捨てにもならないのは、この深夜、胆吹山《いぶきやま》の山腹で振絞る声なのですから、わざわざ好奇《ものずき》に、こんなところまで、こんなだらしのない絶叫を試みに来る奴があろうはずはないのです。
 では、狐か、狸か――しかし、今時の狐や狸は、もっと気の利《き》いた声色を使う。いったい何者だ!
 たとい生温いとはいえ、だらしがないとはいえ、歯切れが悪いとはいえ、その音色に危急存亡の声明とはハッキリとしていて、またその響き来《きた》った方角というのも、この館《やかた》の出丸の直下、石垣が高く塁を成して積み上げられている根元から起って来たのはたしかなので――それ、また続いて聞える、
「誰かいねえのかね、男一匹が、ここで生きるか死ぬかの境なんだから、どうか助けておくんなさい、この上の火の光をたよりにここまでこうやって、のたりついたところなんでげすから――どなたか起きて、ひとつ助けておくんなさい、後ろには大敵を控え、前には絶壁、全く以て、男一匹が生きるか死ぬかの境なんでげすから――」
 続けざまに起る救助を求むるの声、なんてまた生温《なまぬる》さだろう、男一匹が生きるか死ぬかの際に、こういう声を出すくらいなら、黙って死んでしまった方がいい。勝手にしやがれと、噛《
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