ぶすまは、米友を焦点とすることから明らかにそれ出したけれども、その相手が消滅に帰《き》したというのではなく、手取早く言えば、今度は米友とその馬とを抜きにして、ひたひたと竹槍同士の対抗の形となって、ジリジリ押しをはじめている。
「なあーんだ、ここでも戦《いくさ》ごっこがはじまってやがる」
と米友が冷笑しました。道庵先生が関ヶ原で演じた模擬戦を、ここでも誰かが模倣している。
 面白くもねえ――と米友がさげすみました。本来、米友は、道庵がするような芝居気たっぷりがあまり好きではないのです。紙幟《かみのぼり》を押立て、模造大御所で納まり返って、あたら金銭と時間をつぶし、いい年をした奴が、戦争ごっこをしてみたところで、何が面白れえ――
 子供じゃあるめえし――と言って、米友がさげすむのも無理はないのです。道庵先生は、本来ああいうことが好きに出来てるんだ。つまり病なんだ。病では死ぬ者さえあるんだから、どうも、あの先生に限って、仕方がねえと諦《あきら》めてるんだが、病でもなんでもねえ、いい年をした奴等が、こう大勢寄り集まって、あっちでもこっちでも戦争ごっこをするたあ、呆《あき》れ返ったものじゃねえか。
 稼業《かぎょう》を休んでさ――年に一度か二度のお祭なら仕方がねえが、見たところ、これは決してお祭じゃねえんだ。
 ちぇッ――
 米友は、冷笑しながらそれを見ていると、事の体《てい》そのものは全く冗談《じょうだん》でもなければ、いたずらでもない、好きでやっているわけでも、病で狂っているわけでもない、まして、お祭騒ぎでなんぞあるべき余裕や賑《にぎ》わいはちっとも見えないのみならず、明らかに殺気そのものが紛々濛々《ふんぷんもうもう》と湧いているのです。

         四

 今や、最初に米友をめざして突き進んで来た両岸の十数名は、それは先陣でありました。
 先陣は勇者中の勇者のすることです。米友を的としての槍先はこのとき全くそれたが、槍と槍とが川原の真中で出逢ったところですなわち白兵戦が演ぜられるのかと思うとそうでなく、ある地点へ行くと、また急角度に槍先が変って、今度は両方の先陣とも、川をさしはさんで並行線になって、まっしぐらに駈け登って行くところを見ると、そこに水門口があります。
 一方は井堰《いぜき》。
 ちょうど、山崎の合戦で、羽柴軍と明智軍とが天王山を争うたように、この両
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