の大鷲は、いったん胆吹のとまり所へついたが、何をか見つけたものだから、また飛び戻って来たのだ、何かこの下の平原で見つけものをしたものだから、それを捕りに来たものらしい。
お雪ちゃんはそう思って鳥の挙動を見守ると、全く物狂わしいように横転、逆転、旋回、飛上、飛下を試みているのが、いよいよ只事とは思われないのです。
恐ろしい鳥、鳥の中での王――あの勢いで人間をさえ攫《さら》って行くことがある。何をあの鳥が地上に見つけ出したのだろう、覘《ねら》われたものこそ災難――
お雪ちゃんはそう思って、下の原野を見おろしたけれど、鳥は中空にあるから見得られるものの、獲物《えもの》がこの眼の下いっぱいの原野のいずれにあるということなどが認められようはずがありません。
鷲が人間を攫うということはいつも聞いている――もし不幸な人間の子が――もしや、米友さん――あの人は小さいから、もしや子供と間違えられて、あの荒鷲の餌食に覘われているようなことはないか。ああして一心に木の根を掘っているところを、後ろから不意にあの大鷲の鋭い爪を立てられるようなことはないか。鷲が大人を攫ったという話はまだ聞かないが、子供を攫ったということは極めてよく聞いている。米友さんは柄が小さいから、鳥の眼には子供と見られない限りもない――お雪ちゃんは、とりあえず、米友のためによけいなことまで心配になって、わざわざ縁を下りて、下駄をつっかけて、ここから左へよればやはり視野の一部分の中にはいる、さいぜん米友があらく[#「あらく」に傍点]を切っていた開墾地のあたりを見とおしましたけれども、それらしい人の影が認められませんでした。それにも拘らず、大鷲の物狂わしさはいよいよ一層でありました。
単に獲物を覘うならば、あんなに騒ぐはずはない、猛禽の中の王ともあるべき身が、兎や小鳥をあさるのに、あんなに仰々しい振舞をするはずはないと、お雪ちゃんは案ぜられてきました。
地上を探しあぐねたように、この猛禽は、今度は一文字に羽をのして、弥高《いやたか》から春照《しゅんしょう》の方の人里へ向けて飛び狂って行くようでしたが、そのうちに姿が見えなくなったのは、遠く雲際に飛び去ったわけではなく、近く胆吹の山中へ舞い戻ったわけでもなく、どこをどこと見定めたわけではないが、お雪ちゃんの眼には、たしかにあの人里の中へ大鷲が飛び下りてしまったと思わずにはおられません。
そうだとすれば、あの勢いで村里へ舞い下りたとすれば、村里一帯の不安が思いやられる!
一匹の狼、一頭の猪でさえ村が荒される、まして肉を裂くに足る鋭い爪と、血を吸うことに慣れたあの獰猛《どうもう》な嘴《くちばし》と、それから千里を走る翼を備えた、猛禽の王様に侵入されてはたまらない――何か、あの不安を村の人に知らしてやる術《すべ》はないものか。
お雪ちゃんは、そんなことを考えながら、再び無事にあの猛禽が中空高く舞い上り、飛び戻って来ることを望んでいたが、どうしたものか、さっぱりその音沙汰がありません。
お雪ちゃんは、村里の安否も気になるが、猛禽の消息も気にかかってなりません。
そんなことまで思い惑うているところへ、庭から人の足音がして、はっと思う間に、それが例によっての覆面のお銀様であることを認めました。
五
お雪ちゃんは、お銀様の姿を見た瞬間にいずまいを直してしまいました。無論、襷《たすき》をとって、極めていんぎんに挨拶をしました。
「ここはよい景色でございますね」
とお銀様が言う。
「はい、お館《やかた》のうちで、景色はここが一番よろしうございます」
「この松も、いい松ではありませんか」
「全く、見事な松でございます」
「あなたは、ここから見た琵琶湖附近の名所名所を御存じですか」
「いいえ――まだ、ずいぶん昔からの名所でございますそうですけれども、調べてみる暇もございません、教えて下さる方もございません」
「二人で少し調べてみましょうか」
「はい」
「お仕事が忙しいの?」
「いいえ――どうでもよろしい仕事なのでございます」
「では、もう少しこちらへいらっしゃいな」
少しでも多くの視野を展《ひろ》げられるように、お銀様は、お雪ちゃんを自分の身に近く招き寄せましたから、お雪ちゃんはそのまま縁先ににじり寄ると、
「ごらんなさい、あの比良ヶ岳から南へ、比叡山の四明ヶ岳――その下が坂下《さかもと》、唐崎、三井寺――七景は雲に隠れて三井の鐘と言いますが、ここではその鐘も聞えません。唐崎の松は花より朧《おぼ》ろにてとありますが、その松もここでは朧ろにさえ見えはしません」
「けれどもお嬢様、そのつもりで、こうして眺めておりますと、三井寺の鐘が耳許《みみもと》に響き、唐崎の松が墨絵のように浮いて出る気持が致すではございませんか」
「そう思えばそうですけれども、物足りない思いもします」
「一日、ゆっくりおともをして、あの辺を見て歩きたいものでございます」
「そのうちに、一緒に出かけましょう、こちらの岸から船を浮べて、船でゆっくり八景めぐりをしたいものです」
「お船でしたら、それに越したことはございません、おともをさせていただきたいものでございます」
「そんなに遠くないうちに、その暇が得られるだろうと思います」
「楽しみにしてお待ち申しております」
「それから、お雪さん――」
と、お銀様が改まって呼びかけたものですから――お銀様はお雪ちゃんと呼ばず、お雪さんと呼ぶのです――そこでお雪ちゃんが、
「何でございますか、お嬢様」
「あなたにまた少し、御面倒を願わなければならないことがございます、実は、あなたにこれから勘定方を引受けていただきたいと思うのでございます。こうして工事に取りかかっておりますと、何かと入目《いりめ》を取りに来る者がありまして、いちいちわたし一人で払渡しをしたり、受取をやりとりしたりすることは容易でありませんから、その仕事をひとつ、あなたに引受けていただきたいと思います。つまり、この屋敷の勘定方、会計方をあなたにお頼みしたいのですが」
「まあ、そんな大役がわたしにつとまりましょうかしら」
「いいえ――ただ、お金を少し預かっていただいて、その出入りを記して置いていただけばよろしいのです。そうして下さると、わたしが助かります。わたしはまた関守さんを相手に、この古館《ふるやかた》を新しくするいろいろの設計や、田畑の開墾や、人の出入りなどに気を配らなければなりませんから」
「ずいぶんお忙しくっていらっしゃいましょう、それならば、わたしでお役にたちますことならば、一生懸命おつとめを致しましょう。でも、お金の会計方は、わたしなんぞでは、あんまり大役過ぎるかと思います」
「いいえ――慣れればやさしいことです。ただ、お金を扱っていることが悪い人に知られると、それを狙《ねら》うものが出来てきますから、そのつもりで、お金の番人はあの米友さんにでも頼んで置いて、あなたは人に払い渡してやることと、人から受取ることだけをおやり下さって、それをいちいち帳面につけていただきさえすればよいと思います」
「そういうわけでございましたなら、米友さんを相手に――御用をおつとめ致してみましょう」
「有難う――では早速お頼みしましょう、ここへ少し持って来たのですが」
と言ってお銀様は、抱えて来た小箱の包みを解いて、蓋《ふた》をあけながら、
「これから、この土地を拓《ひら》くについては、相当にお金も要ることとおもいましたから、今日飛脚を甲州へ立ててもらって、お金を取寄せることにしました。とりあえず道中の路用のうちを、お角さんという人から受取って、当座の費用にあてることにしましたが、どうも、土地土地でお金が変るものですから、両替をしなければなりません。それでまた、たった今、あの長浜というところへ使を頼んで、お金の両替をしてもらうことにしましたから、そのうちこまかいのも参るでしょう、とりあえず、このお金を預かって下さい」
と言って、お銀様が無雑作《むぞうさ》に箱の中から摘《つま》み出したのは、幾片《いくひら》かの小判でありました。
「甲州を立つ時に、父がわたしのために路用だと言って、あのお角さんという人に預けたお金を、半分は手附としてこの土地の持主に渡しました、その残りを、わたしがこちらへ来る時にお角さんが渡してくれました、それをまた三つに分けて、あの人にも持たせてやりました、その一つは、いま長浜へ両替にやりました、残る一部がこれなのです――数えてみると小判が五十二枚だけありました」
「まあそんな大金……」
お雪ちゃんは、思わず眼をみはりました。お雪ちゃんとしても、単に金銭に眼がくらんだというわけではなく、あんまりお銀様の金扱いが大まかなのに、ちょっと驚かされたのです。
五十二枚の小判を、無雑作に他人の眼の前へ持って来て、余り物でも処分するような扱い方が、お雪ちゃんには意外に思われてたまらなかったのです。お雪ちゃんとしても、そう卑しい生立ちではないから、千万金を見せられようとも、時と場合によっては、心を動かすようなさもしい人柄ではないけれども、お銀様のあまりざっくざっくした扱いぶりに呑まれたような形で見ていると、お銀様が、
「いいえ、大金というほどではありませんけれども、それでも、払渡しや買物に、これでは扱いかねることがありますから、別に五十二枚だけ、いま申しました通り、長浜へ両替にやりましたから、そのうちに戻りましょう、小出しは小出しとして置いて、これはまたこれとしてお預かり下さい」
「では……お引受け致しました以上は、ともかく米友さんの帰るまでお預かりして置きまして――」
「どうぞ、そうして下さい」
「念のために、一応おあらためを願います」
「はい――」
と言って、お銀様はわるびれずに、自身その箱の中から小判を取り出して、いちいちお雪ちゃんの眼の前で数を読み、
「この通り、五十二枚ございます」
「確かに五十二枚――そうして、お金につもれば幾らになるのでございましょうか」
「ホ、ホ、ホ」
と、お銀様が珍しく軽く笑いながら、
「お金につもればと言っても、これがそのお金そのものじゃございませんか」
「まあ、ほんとうに左様でございました、小判五十二枚ですから、五十二両でございますね」
「え、一枚を一両と覚えていらっしっていただきまして、その値段は、小判のたちによって違うのでございます」
「そのように聞いておりましたが、この小判は……」
「これは、たちのよい方の小判なのです、ごらんなさい、享保小判と申しまして、これでこの一枚の重さが四匁七分あるのです」
と言って、お銀様は小判の一片《ひとひら》を指の上にのせて、目分量を試むるかのように、お雪ちゃんの眼の前に示し、
「一枚の重さが四匁七分ありますが、それがみんな金《きん》というわけではありません、そのうちの六分三毛というのがほかの混ぜものなのです、純金ばかりでは軟かくってお金になりませんから――そうして、この一両を小銭に替えますと、六貫五百文ほどになるのです」
と、お銀様が説明しました。つまり一両の享保小判の全体の重さは四匁七分あって、混ぜ物が六分三毛あるから差引そのうち正味の純金が四匁九厘七毛だから、これを銀にかえ、小粒《こつぶ》に替え、銭にかえたら幾ら――西暦一九三三年前後、世界各国が、金の偏在と欠乏に苦しんで、それぞれ国家が金の輸出を禁止し、日本の国に於ても、公定相場が持ちきれなくなり、その一匁市価が十円まで飛び上ったとして、右の享保小判の一枚は四十七円に相当するから、五十二枚は二千四百四十円ばかりの勘定となる――それだけの金を、旅費の一部分として無雑作に目の前に出されたことに於て、今更、お雪ちゃんも、この人の実家というものが、底の知れないほどの長者であることを思わせられずにはいないと共に、そうかといって、それを湯水、塵芥《ちりあくた》の如く扱うわけでもなく、量目の存するところは量目として説明し、換算の目算は換算の目算としての相当の常識――むしろ、富に於てはこれと比較にならない自分たちの頭よりも
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