伊勢の国の鈴鹿峠の下の関の宿《しゅく》から、お安くない御縁を結んだ、あのお豊さんとやらの心意気だけは、あなただって恩に着ないわけにはゆきますまい」
「は、は、は」
「あなたは、人妻を犯しました、人の後家さんを取りました、婬婦を弄《もてあそ》ぶこともしましたし、処女と戯れることもしましたねえ、わたしの知っているだけでも……そのうち、誰がいちばんお気に召しましたかねえ」
「は、は、は」
「甲州の八幡村の小泉の家で、わたしに逆綴《ぎゃくとじ》の帳面の初筆《しょふで》をつけさせました、あの時の水車小屋の娘もかわいそうでしたね」
「は、は、は」
「その帳面はあれからどうなりました」
「は、は、は」
「水に流されてしまってそれっきりでしたか。帳面は水に流されても、あなたの悪い行いは流れてしまいは致しますまい」
「は、は、は」
「あれから後、何人の人を殺しましたか」
「は、は、は」
「染井の化物屋敷の時のことをお忘れなさりはしますまいね、弁信さんとわたしと三人で、あの、うんきの中に、土蔵の二階で合奏をしたことがありましたねえ」
「は、は、は」
「白骨の温泉こそお楽しみでしたねえ、誰も知らない天地の間
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