応は尤《もっと》もなお心づかいでございますが、この胆吹山や、伊勢の鈴鹿山が、名ある盗賊のすみかであったことも、もはや過ぎ去った昔のことでございます、今日では誰も左様なことを噂《うわさ》にさえ申しませぬ。ただ恐るべきは山路の険と、気象の変化、それだけなんでございましょう。では、わたくしはこれから出かけて参ります」
 ここまで弁信は喋《しゃべ》りまくって、また静かに、風のように廊下先から消えてしまったのを、お雪ちゃんは、とどめようとして、つかまえどころのないのに苦しみました。

         七

 弁信が帰るとまもなく、天候がにわかに変ってきました。
 後ろの胆吹山が大きな鳴りを立てたかと思うと、さっと吹き下ろす風が千丈の枯葉を捲いて、原も、村も、里も、一度に裏葉を返す秋の色を見せました。
 と見れば、比良ヶ岳、比叡山《ひえいざん》の上に、真黒な雲がかぶさり、さしも晴れやかに光っていた琵琶湖の湖面が、淡墨《うすずみ》を流したように黝《くろ》ずんできたのを認めました。
 麓の方で、さしも物騒であった鳥の形も、人の気配《けはい》も、いつのまにかすっかり消えてしまって、胆吹山おろしだけが、
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