、たまったものではありません。なるほど、音に聞く胆吹颪《いぶきおろし》は怖ろしい、全く、弁信さんという人は進んでいるのだか、退いているのだかわからない、ああ、危ない、あの崖、あそこへ顛落《てんらく》した以上はもう助からない!
その時に、弁信の頭の上の空中から、にわかにまた一団の黒雲が捲き起って来たようなのを認めました。あ、鳥が――またあの大鷲が……
あなやと思う間に、その一羽の大鷲が、急に舞い下って、大風にこけつまろびつしている弁信の胸のあたりを見計らい、一掴《ひとつか》みに掴んだ、と見れば、そのまま空中高く舞い上ってしまったのです。つまり、山路を、こけつまろびつ上らんとして、危なく崖下に顛落することの不幸の代りに、空中高く攫《さら》われてしまったのです。
あれよあれよ――と呼ぶものは、お雪ちゃんばかりでした。
「ど、どうしたんだ」
ああ、よかった、米友さんが来てくれた、友さん、今、弁信さんが鷲に攫われてしまいました、大きな鷲がたくさん出て来て、そのうちの一羽が――崖に辷《すべ》って転んだ弁信さんの身体《からだ》を上からのしかかって、あれが本当の鷲掴みというのでしょう、胴中《どうなか》のところをグッと一掴みにしたまま、あれ、あの通り高いところへ飛んで行ってしまいました。弁信さんは身体が小さいから、それで子供と間違えられて、鷲の爪にかかったに違いない、あれあれ、あの崖のところへ――米友さん、何でもいいから早く弁信さんを助けてあげて下さい。
「よーし来た」
頼もしげに米友は力《りき》み立ったけれども、その実は同じところに歯がみをしいしい地団駄を踏んでいることがよくわかります。つまり、いかに米友の勇気と精力とを以てしても、翼を持たない限り、あの攫われた弁信を如何《いかん》ともし難い焦躁が、お雪ちゃんにはっきりとわかるだけ、よけいに気が気ではありません。
そのくせ、鷲に攫われて、中空高くつり下げられた弁信の面《かお》を見ると――夜ではあるし、遠くはあるし、高くはあるのですから、ここで弁信の面が見えようはずはないのですが、不思議とお雪ちゃんには、ハッキリとそれがわかりました。
平々淡々として、泣きもしなければ、怖れもしないのです。もがきもしなければ、焦りもしない。悲鳴も上げなければ、絶叫もしてはいないのです。鷲の爪で胴中の全部をしっかりと掴まれてはいるけれど、その爪が肉身の間に喰い入っているのではないのでしょう、苦痛の表情が更にないのみならず、血も流れてはいないのです。でも死んでいるのでないことは、その表情がそれを示します。寂静ではあるけれども、弁信の面の上には、苦痛のあとと悶絶《もんぜつ》の色は現われてはいないのです。弁信さんという人は、普通の人が苦痛の極とする時には、かえって安静の色が現われるし、多くの人が絶望の刹那《せつな》という時に、かえって大安心《だいあんじん》の愉悦相を現わして来る人だ――だから、この場合、ああして澄まし切った面を見ていると、あれで全く無事なんだという弁信の心境が、お雪ちゃんの心の鏡にはっきり映るのです。せめてそれだけが、お雪ちゃんの心の慰めでありましたが、そうかといって、あのままで置けるものではありません――米友はしきりに歯がみをして、地団駄を踏んでいる。
「奴! やりゃあがったな」
「友さん、どうかならないものですか」
「うむ、見てやがれ!」」
その時、ブーンと風をきって曳火弾《えいかだん》のように米友の手のうちから飛び出したのは、それは例の宇治山田以来身辺を離さぬところの杖槍《つえやり》でありました。手練の手もとから風をきって飛び出したその目あては、あの大鷲でなくて何であろう。
「あら! 米友さん、無茶なことをしては……」
かえってお雪ちゃんが、その棒のために胸を打たれた思いをしました。
というのは――いくら腹が立つといったところで、ここであの鳥を痛めつけては、どうもならないではないか、鷲が一羽だけでもあるならば、それを打ち落そうとも、射止めようとも知らないが、あの鷲は弁信さんという人質を取っている、鷲を落せば、弁信さんも落ちて来る、落ちれば鷲よりも弁信さんが先に粉微塵《こなみじん》に砕けてしまうではないか、米友さんという人も考えが浅い!
お雪ちゃんはこう思って、ひやりとしたけれども、そこはまた余裕があって、まあ、米友さんがこうして腹立ちまぎれ、危急まぎれに、思わず知らず得意の棒を擲《なげう》ってみたところで、鷲はあの通り、千尺の高みにいる、いくら米友さんが棒の名人だからといって、矢も鉄砲も届くはずのないあんな高いところまで、棒が届くはずがない――そうも思って、お雪ちゃんも、やや安心していると、どうでしょう、その米友の擲った槍が、容易には下へ落ちて来ないのです――それはちょうど棒の
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