応は尤《もっと》もなお心づかいでございますが、この胆吹山や、伊勢の鈴鹿山が、名ある盗賊のすみかであったことも、もはや過ぎ去った昔のことでございます、今日では誰も左様なことを噂《うわさ》にさえ申しませぬ。ただ恐るべきは山路の険と、気象の変化、それだけなんでございましょう。では、わたくしはこれから出かけて参ります」
 ここまで弁信は喋《しゃべ》りまくって、また静かに、風のように廊下先から消えてしまったのを、お雪ちゃんは、とどめようとして、つかまえどころのないのに苦しみました。

         七

 弁信が帰るとまもなく、天候がにわかに変ってきました。
 後ろの胆吹山が大きな鳴りを立てたかと思うと、さっと吹き下ろす風が千丈の枯葉を捲いて、原も、村も、里も、一度に裏葉を返す秋の色を見せました。
 と見れば、比良ヶ岳、比叡山《ひえいざん》の上に、真黒な雲がかぶさり、さしも晴れやかに光っていた琵琶湖の湖面が、淡墨《うすずみ》を流したように黝《くろ》ずんできたのを認めました。
 麓の方で、さしも物騒であった鳥の形も、人の気配《けはい》も、いつのまにかすっかり消えてしまって、胆吹山おろしだけが、自分の頭の上でゴーッと鳴るのを聞くばかりです。
 あまりの急激な天候の変化に、お雪ちゃんは悲しいような、怖ろしいような気分に襲われていると、つづいて山おろしが庭先の松の梢を伝って、見ゆる限りの野も山も、どよめき渡ると見る見る南近江から、伊勢と美濃へかけての天地が暗くなって行くのです。
 うしろの胆吹の山が息をついては吐き、吐いてはつくように山鳴りをつづけている。その度毎に野分《のわけ》の大風が吹き出されるような響を聞くと、お雪ちゃんは、どうしても、さきのあの大鷲がこの山へ舞い戻って、その羽風《はかぜ》がこうして煽《あお》るのだと思われてなりません。不在《るす》の間に子を捕られて、それを取戻そうとつとめたけれども、そのかいがないために、親鷲が憤って、山の上で羽風を鳴らすために、急に天候がこう変って、風が吹きすさんで来たもののように、お雪ちゃんには受取れてなりませんでした。
 それにしても、この不穏な天候、もはやこうして、暢気《のんき》な縁先の仕事はできないものですから、委細をとりまとめて室内へ持ち込みながら、ああ、いやな風、自分の不快よりも、これから袂《たもと》をひるがえして、あの胆吹の山の頂を極めようとする弁信のために、悪いさいさきだと思わずにはおられません。
 お雪ちゃんは障子を締め切って風を防ぎながら、弁信さんのために、この風が早くやむように、あまり強くならないようにと心配していると、その心配がようやく昂じて来てなりません。取越し苦労はするなと、特に戒めて行かれたにかかわらず、この時はまた弁信法師の山登りがいっそう気がかりになってたまらないのみならず、風水盗賊の難のほかにまた一つ、もしかしてあの弁信さんが、この山上に棲《す》む大鷲にさらわれてしまいはしないだろうかという懸念《けねん》さえ起って、不安に堪えられませんでした。
「弁信さんも弁信さんです――なにもわたしたちさえ御参詣をしない先に、いくら身軽だからといって、たった一人でお山登りなんぞをしないでもよいではないか」
 この信友もまた、自分に気をもませる存在の一つであるように思い案じてみました。

         八

 その心遣《こころづか》いが、その夜、枕についてからのお雪ちゃんを苦しいものにしました。
 胆吹山から吹きおろす大風の中に、袖を翻して、ひたすらに山路を登る弁信の姿を、いと小さく、まざまざと目《ま》のあたりに見ました。
 胆吹山容の雄偉にして黝黒《ゆうこく》なることは少しも変らず、大風はその山全体から吹き湧き、吹き起り、吹き上げ、吹き下ろすようにのみ思われて、つまり、山全体が大きな呼吸をしているようにしか、お雪ちゃんには受けとれなかったのは、さしも大風ではあるけれども、雨というものは一滴も降ってはいず、星の空はらんかんとして、山以外の天地は至って静かなものです。そこを、山だけが盛んにひとり吹き荒れ、吹きすさんでいるものですから、山自身が呼吸をしているものとしか思われません。その度毎に、弁信のやつれた法衣《ころも》の袖が吹き裂けんばかりに吹き靡《なび》かされ、その小さな五体が吹き上げられ、吹き下ろされているのを見るばかりです。
 そこでお雪ちゃんはまた、弁信をかわいそうだと見ないわけにもゆきません。ごらんなさい、あの通り、あのたどたどしい足どりを。二万|呎《フィート》以上のエヴェレストの探検家の運ぶ足どりと同様に、弁信の身が吹き倒され、吹きまろばされるから、寸進尺退の有様、見るも歯痒《はがゆ》いばかりであります。山路が嶮《けわ》しい上に、あの烈風がまともに吹き下ろすのだから
前へ 次へ
全52ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング