最も好んで食べたのは蕎麦粉《そばこ》であったという。そして背には負仏《おいぼとけ》を納めた箱一つ、これは陸奥《みちのく》の端より佐渡ヶ島、特に佐渡ヶ島には法縁が豊かであったと見えて、幾多の堂宮、仏体、巻軸が残っている。佐渡を離れる時に、
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四とせ経てけふ立ちそむる佐渡島を
いつきて見るやのりのともし火
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という一首を、九品仏《くほんぶつ》の堂上の額に題して去った。
東海、東山、西国三十三番、大阪より播州に進み、作州に入って津山城下より下津井に下って船により、四国遍路を済ませて、伊予の大洲《おおす》から九州の佐賀の関に上陸、豊後路《ぶんごじ》を日向へ向い、そこの国分寺に伽藍《がらん》を建て、五智如来をきざんで勧請《かんじょう》し、それより大隅、薩摩、肥後、肥前と経巡《へめぐ》ってまたも日向の国分寺に戻り、それよりまた豊前、豊後を経て九州を離れて赤間ヶ関に上り、それからまた山陰、山陽の遍路がはじまり、再び四国八十八カ所、三百里の里程がこの旅僧を待っている。それが終ると、瀬戸内海を縫うてまた浪速《なにわ》へと志し、安治川《あじかわ》を上って京の伏見より江州を経て勢州に至り、尾張、三河、遠江《とおとうみ》、そこの狩宿に十王堂を建て、十王尊と奪衣婆《だつえば》を納め、駿河《するが》の随所に作物を止めて、興津《おきつ》から万沢を経て身延に詣でて見ると、そこは早や故郷の甲州である。身延の対岸の帯金村に四十五日を送った後に、故郷の丸畑へ帰ったのが寛政十二年十二月末で、上人の齢《よわい》はその時八十三歳であった。
故郷丸畑の永寿庵を修理して、その本尊の五智如来をきざみ、それが終るや、四国堂の建立《こんりゅう》と、八十八体仏の彫像、その大願を成就したが、それで故郷に大安住の終りを求めたわけではない。享和二年の末つ方、またも故郷を立ち出でて、再び故郷へは帰らざる旅に出た。
その後、信濃路を経て、越後の国に入る。信心深いこの国の人々は、上人の足を二カ年半も止めさせたということで、後に特志の人がその間にきざんだ仏像を見つけたものだけでも百五十体、なお幾多の隠れたるものが想像される。人間の齢《よわい》の頂上を祝《ことほ》ぐ八十八も旅のうちに過ぎ去って、その後の行蹟はわからない。わからないけれども、その年齢で、越後から清水越《しみずご》えか、或いは三国峠《みくにとうげ》をよじて上州の沼田へ出たであろうと想像され、そうして碓氷《うすい》を越え、道を甲州にとって甲府の金手町の教安寺というのに九十一歳の時にきざんだ七観音が残っているが、それからどこをどうしたか故郷へは帰らない、終ったところもわからない。けれども親戚のうちにお位牌がある、それには、
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「文化七庚午年
円寂 木喰五行明満聖人品位
六月初五日」
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これによると、九十三歳の円満|示寂《じじゃく》は疑うところがない。
与八は右の婆さんからこの物語を聞くと、ホロホロととめどもなく涙をこぼしてしまいました。そうして、こんどはアベコベにお婆さんを与八が伏し拝んでしまいました。そしてホロホロ泣きながら言うことには、
「ああ、ああ、そういう有難い上人さまが、この御近所にお生れになったということを、はじめてお聞き申しました、そのことでございます、旅のことでございます、巡礼のことでございます、日本廻国のことでござりました、ほんとうに、それが有難いお志でござりました、旅をしなければなりません、一生涯を旅に費して、八十、九十になっても安住の土地をお求めにならなかった、それが本当でございます。わしも本来は、その旅を志して出て来たのでございましたのに、今、こうして人様のおなさけに甘えて、いい気になっているのは悪うござりました、わしらは、わしらの罪亡ぼしに、やっぱり一生涯旅をし通さなければならないわけのものでございましたのに……」
と言って、与八は婆さんを伏し拝んでいるうちに、いよいよ涙がとめどもなく流れて来ました。
底本:「大菩薩峠16」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 九」筑摩書房
1976(昭和51)年6月20日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年1月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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