っているお銀様は、米友の舌打ちに頓着なく、
「この人たちと一緒に、長浜というところまで行ってもらいたいと思います」
「長浜――」
「え――長浜というところへ両替《りょうがえ》に行って下さい、友さんはただ、用心について行ってくれさえすればいい、万事はこの人たちに頼んであるから」
 この時まで、お銀様の後ろ影を踏まざること二丈ばかりの間隔を置いて、鞠躬《きっきゅう》としていた手代風のと馬子と、それに従う極めて従順なる一頭の駄馬とを、米友が流し目に見ました。
「つまり、おいらは、ただ用心棒だけについて行きゃいいんだな」
「そうです、この人たちに万事は頼んであります、こちらから、お金を持って行って、そうして、あちらで、そのお金を、ここの土地で使えるお金と取替えて来るだけの仕事なのです。ですけれども、なにしろお金のことだから、誰かしっかりした連れがあって欲しいと言いますから、そこで、友さんのことを考えつきました、用心に行ってやって下さいな」
「ああ、ああ、どっちへ廻ってもおいらは、用心棒に使われるように出来てるんだ――」
と米友は、やけのように言ったが、自ら軽蔑しているわけでもなく、頼まれることを拒絶するわけでもなく、鍬《くわ》を取り上げて、傍《かた》えの小流れのところへ行って手を洗い、そのついでに、ブルブルと面《かお》を二つばかり水で押撫で、それから腰にたばさんだ手拭を抜き取って無雑作《むぞうさ》に拭き立ててしまうと、もうそれで外行《よそゆき》の仕度万端が整ったのです。
 一頭の駄馬を中にして、一人の馬子と、馬わきの手代風なのと、それに宇治山田の米友(例の杖槍は附物)が前後して、この一文字道を長浜街道の方へ行く。その後ろ姿をお銀様は、米友が今まで掘り起していた木の株根の傍に立ち尽して遠く遠く見送っておりました。
 右の一行が山林|叢沢《そうたく》の蔭に見えなくなってしまうと、広い荒野原の開墾地に、お銀様ひとりだけの姿です。
 この時分はちょうど真昼時なので、うらうらと小春日和が開墾地の土の臭いを煽《あお》るような日取りでしたけれど、お銀様がくるりと向き直って胆吹山に対し、ひたと向い合いになった時分に、胆吹山が遽《にわ》かに山翼をひろげて、お銀様に迫って来るのを覚えました。

         二

 そこでお銀様は、胆吹山の挑戦に向って答えるように、ゆらりゆらりと右の開墾場から山を押して進んで行きました。
 以前、馬を曳いて来た一筋道とはちがって、今度は、あらく[#「あらく」に傍点]沿いの林をめぐって、めぐり尽すと、そこにまた一つの風景が展開されました。
 山腹が、ここへ来るとまたカーヴのなだらか味を見せまして、雄偉なる胆吹の山容そのものの大観はさして動かないけれども、裾の趣は頓《とみ》に一変してきました。
 右の三合目ばかりの麓は、一帯に松柏がこんもりと茂る風情、左へかけて屋の棟が林の中に幾つか点々として見える。そのつづき、弥高《いやたか》から姉川《あねがわ》の方へ流れる尾根を後ろにして宏大な屋敷あと、城跡と言った方がよいかもしれないほどの構えがあることを、明らかに見つけられるような地点に立ちました。
 ゆらりゆらりと山を押しながら行くお銀様の目は、この宏大なる屋敷あと乃至《ないし》城あとに向って、足は爪先あがりに上って行くのであります。
 その時、往手《ゆくて》の林の中から、いかにもあわただしく転がり出して、こけつまろびつ、こちらへ向って走り来《きた》る二つの物体がありました。
 不意ではあったけれど、こちらは驚くほどのことはありません。まさしくこの地方に見る、あたりまえの山稼《やまかせ》ぎの二人の農夫で、仕事着を着て、籠を背負ったなり。これはこの地特有の副業、或いは正業としての有名な、胆吹山の薬草取りのこぼれであることは疑うべくもありません。ただ、ちょっと驚かされたのは、かく慌《あわただ》しく、こけつまろびつ走る二人のうちの一人が、何か胸に後生大事にかき抱きながら、ものに追われるもののように走り来る事の体《てい》が、穏かでないと見らるるばかりです。
 いよいよ近づいて見ると、その二人は、額にも手にも、かすり創《きず》だらけで、着物もかなり破れ裂けている。妙な恐怖心と、はにかみをもって、お銀様に摺《す》れ違うところまで来たが、存外、歩調がゆるやかになって、その胸に後生大事に抱いたものに眼をくれながら、何かお銀様の好奇に訴えてもみたいようなしな[#「しな」に傍点]をして、
「いやはや、大変な目に逢っちまいました」
「どうしたのです」
とお銀様も、反問せざるを得ませんでした。
「鷲《わし》の子をとっつかまえましたよ、鷲の子を……」
「鷲の子を……」
 その胸にかい抱いたところのものを提示するように言いましたから、お銀様が篤《とく》とそ
前へ 次へ
全52ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング