とはなかったのですが、それでも陸地一帯は茫々模糊《ぼうぼうもこ》たる夜の色に包まれている間を、茂太郎は淋しげに見渡して、
「七兵衛おやじが、こっちへ駈けて来るのが、船の上ではよく見えたんだがなあ」
 茂太郎としては、珍しく、ほとんど泣き出しそうな声をして、彳《たたず》みきって動こうともしません。
 なるほど、そう言えばそうです。海上遠くメーンマストの上で、茂太郎は、「七兵衛おやじが、走るわ、走るわ」とわめき立てたことがありました。その時の調子と、今日のしょげ方とを比べて見ると、それではあの時のは、檣《ほばしら》の上の出鱈目《でたらめ》の即興ではなくて、真に、茂太郎の眼では、磐城平から海岸通りを北走する七兵衛の姿を認めたのか。
 そんなはずはあるまい。あの時は、陸地を避けて、船はあんなに遠く海洋の沖中を走っていたのだ。四顧茫々として、遠眼鏡を以てすら陸地がいずれにあるかさえわからなかったその中で、茂太郎が仙台領を走る七兵衛の姿を認め得られるはずはないのです。
 しかし、あれが即興の出鱈目であるとすれば、ここへ来て、こんなに失望する理由もまた消滅しなければならないのではありませんか。
 ましてこの夜のことです。はしけ[#「はしけ」に傍点]で迎えに来ないからといって、この見渡す海岸のいずれの地点にかその人が待兼ねていないとも限らないのに、以前の即興があまりに眩燿的《げんようてき》であっただけに、ここへ来ての失望が独断に過ぎるのは、多少気の毒と滑稽を感ぜしめないわけにはゆかないのです。
 今や茂太郎はパッタリと、出鱈目も歌わず、即興も叫ばぬ人になってしまいました。尤《もっと》も駒井としては、船がかり中は別して静粛を保つようにと、特に入港の前に申し渡してあるのですが、それを、すんなりと守り得られる茂太郎ではないはずで、船が着く時は、彼の即興がまたネジを戻すものとばっかり思われていたのに、ひっそりとして、全くそのことがありません。
「今晩は茂ちゃんが、バカにおとなしいではありませんか」
 お松が言うと、駒井が、
「珍しくあの子の上に船長の威令が行われた」
と言って微笑《ほほえ》みはしたけれども、その実はなんとなく、淋しい思いに襲われていることは、お松も同じことです。
 噪《さわ》ぐべき人は噪いだ方がよろしい。歌うべき人は歌った方がよろしい。船長の威令を無視してまでも、あの子はあの子として出鱈目を歌った方がよろしい。むしろ歌ってもらいたいものだというような物足らなさが、駒井の胸にも、お松の胸にも、ひとしく湧き上ることを如何《いかん》とも致しかねました。
 ですけれども、茂太郎の歌は、決して聞えませんでした。
「よく寝れば、寝るとて親は子を思い」――お松は、そういったような一種の親心同様な思いに駆《か》られて――船長室を立ち出で、
「茂ちゃあーん」
と呼んでみようとしたが、おとなしくやすんでいるものを起さないがよいとも思案しました。なまじい呼びかけて、またあの子の即興心をまで呼びさまし、はしゃぎ出されたのではたまらない。
 港へ入ったという安心で、あの子もぐっすり寝込んでいるだろう、明日まではそうして置くがよいと、お松は思案して、自分の部屋へ引返しましたけれど、茂太郎の歌わないことが、いよいよ我が身を滅入《めい》らせるような思いをしないではありません。
 こうして、入船の当夜は、特に静粛なるべき船長の思慮と命令がよく行われて、物音らしい物音、人声らしい人声は船内から一つも外へ洩《も》れないで、ほとんど無事にその夜が明け放れんとする時分に、船長の思慮と威令とが、遺憾なく蹂躙《じゅうりん》された一大衝動を捲き起したというのは、本意《ほい》ないことであります。
 さては茂公、いよいよまたネジが戻ったかな、七兵衛の姿をでもいずれからか発見して、急にはしゃぎ出したのか、そうではない。
 噪《さわ》ぐべく、歌うべき当人の株を奪って、その騒音は、意外といえば意外だが、さもそうありそうな船内の一角から起りました。例のマドロスが、突拍子もない大きな調子で、だみ声をあげたかと思うと、ガムシャラに歌い出すと共に、足踏み荒くダンスをはじめ出したことです。
 そのけたたましい物音に、一船内がことごとく暁の夢を破られてしまいました。
 夢を破られたもののすべてが、さてはマドロスめ――と、苦々しい思いをしましたけれど、マドロスは一向その辺の遠慮心を喪失してしまったものと見え、濁声《だみごえ》はいよいよ濁り、調子はいよいよ割れ出し、ダンスの足踏みは盛んに荒《あば》れ出したものであります。
「奴、また飲みやがったな」
 船頭二三が歯噛みをしました。事実、マドロスとても、その後はかなり神妙にし、船中でも相当に働き、役にたつ時は羅針盤同様の必要な役目をさえ成し遂げて、ともかく無事――金椎の厨房《ちゅうぼう》から饅頭《まんじゅう》を取って来て、ひそかに兵部の娘に食わせたり、食ったりしたなどは別として――にこれまで来たのに、そうして、今夜一晩は特に静粛にという船長の命令もようやく呑込んでいたのに、九十里のところで物の見事にぶちこわしてしまったということは――それは必ずしも御当人に、航海中たくわえられた反抗心があってそうさせたのではない。あのだみ声の呂律《ろれつ》でも、足踏みのしどろもどろでも分る通り、酒という魔物が手伝って、あれをああさせているのだ。
 それにしても、誰が酒を飲ませた。船中では一切飲ませないことにしてあったはず――飲みたくも、飲ませたくも、酔わせるだけの分量は貯えてなかったはずなのに。
 ははあ、では、あいつ待ちきれなくなって、早くもこっそりと小船に乗るかなんぞして、岸へ抜けがけをして、あのアルコール分を身体《からだ》の中へ仕込んで来たのだな、そうと解釈するほかはない。
 そうだ、そうしてアルコール分をしっくりと体内に仕込んで帰って、いい気持で寝床にもぐり込むはずのところを、その仕込んだ分量が超過したものだから、ついにあの呂律となり、あのステップとなってしまったのだ。
 ちぇッ――世話の焼けた奴だなあ。
 まず、最も近い室の房州出の船頭の二人が眉をひそめると、同様の思いが、お松にも、駒井の室へも響かないということはありません。
 しかし、マドロスにこうもアルコール分が廻った場合に、この船内では遺憾ながら、それを制裁する実力を持ったものが一人もありませんでした。
 ウスノロはウスノロだが、体格は図抜けていて馬鹿力があるし――田山白雲でもなければこれに対抗するものはないのです。今のところでは、手をつけるより、手をつけないで自然の鎮静を待つよりほかはないと船頭はじめ眉をひそめて、苦々しく思っているのだが、あいにくそのアルコール分はいよいよ沸騰するだけで、いつ鎮静の時を得るか分らないもののようです。
 船長室へ駈けつけたお松が、駒井の迷惑と共鳴して、
「こっそりとお酒を飲みに、陸《おか》へ上ったのでございましょう」
「困ったものだ」
 駒井甚三郎も真に当惑の色であります。
 そのうちに、たまり兼ねたか船頭が取鎮めかたがたなだめに行ったもののようです。ところがその結果はかえって石灰の中に水を入れたような結果になり――喧々囂々《けんけんごうごう》、組んずほぐれつ、収拾すべからざる大乱闘が捲き起されてしまったことは、船長室まで手に取るように聞えて来ました。
「まあ、なだめに行った船頭さんたちを相手に、また乱暴をはじめたようです、どう致しましょう」
「困ったことだ」
 駒井は苦り切っている。お松はいても立ってもいられない心持。あちらの船室内の騒動はいよいよ驚天動地。
「ほんとうに、田山先生がいらっしゃるといいのですが……」
 お松としても、時|艱《かん》にして英雄を思うの情に堪えられないが、徒《いたず》らに英雄を想うのみで、この際、自分としてはなんらの施すべき策も手段もありません。
 捨てて置けば、幾つかの人命にも関するほどになりはしないか――この上は、是非に及ばない、自分が出動して取りさばくよりほかはないと、駒井も思案して立ち上りました。お松もおどおどしてその後に従い、乱闘の方に進んで行きましたが、お松の心では、この殿様を、あんなところへお出し申したくはない、こんなことにまでいちいち殿様の御足労を煩《わずら》わさねばならないかと、痛々しさに堪えられませんでした。
 いかに酔っていても、船長の命令に服するだけの常識は残っているだろうが、もし、それをきかない時は、この殿様が御自身手を下して、あんな奴を御成敗――といっても、人間はダラシがないにはないけれども、船としてはいま無くてならない人になっているあのマドロス、殿様もあれを失いたくはなくていらっしゃるだろうから、思い切った御成敗をなさるわけにはゆかない、そうすると、あれが増長する。
 お松は、どうかして、この殿様をあの場へやりたくない。できることなら自分が出向いて取締りをつけてやりたい。しかし、ああなっては気ちがいよりも怖いのだから、わたしの力なんぞではどうすることもしようがない。
 ああ、困ったことだ。
 お松は、じりじりとじれる足どりで、駒井に従いながら、実はその行手に立ちふさがりたい心持です。
 こうして、一歩一歩乱闘の室に近くなった時分に、急にそのけたたましい喧噪《けんそう》がいくぶん緩和されたような気分になったのは意外でした。それでも、たしかにそうです。獣の狂うような渦巻が急にいくらか和《やわ》らかになってきたようだと感じた途端――女の声で、
「マドロスさん、いいかげんになさい、そんな乱暴をしないで、わたしのところへ来てお休みなさい、まだ夜が明けたわけじゃないから、もう一休み、ゆっくりと寝ましょうよ、ね、マドロスさん……」
 それは、兵部の娘の声であります。この女性の声が乱闘の中へ流れ込んだものですから、それで獣の噛合《かみあ》いのような渦巻がいくぶん緩和されたものでありました。
 それを聞くと、甲板の上で、駒井甚三郎とお松とが、言い合わせたように足を止めていると、マドロスの声で、
「お嬢さんと、寝る、寝る、よろしい、寝る、寝る、よろしい、チーカロンドン、ツアン、バツカロンドン、ツアン」
 急に御機嫌が直ったマドロスが足踏みおかしく、よろよろとよろけた体を、兵部の娘に持たせている様子が手にとるようです。
[#ここから2字下げ]
もえさんと
寝る、寝る
よろしい
チーカロンドン
バツカロンドン
ツアン
[#ここで字下げ終わり]
 まさしく茂太郎の株を、この不埒《ふらち》なるマドロスめが奪って、そうして、兵部の娘にあやされながら、その寝室の方へと転げ込んで行く様子が、いよいよ手にとるようです。やがて一切の喧囂《けんごう》が拭うたように消え去ってしまいました。
 甲板の或る一点に、申し合わせたように足を止めた駒井甚三郎とお松は、そこで面《かお》を見合わせました。
 けれども、駒井の面にも、お松の面にも、まあこれで安心という快い色は見えませんでした。そうして二人とも、なんとなく興ざめ面で、無言にとって返さなければなりません。
 お松は、ここでちょっと駒井に取りなす言葉のきっかけを失った思いです。事実、この際、もゆるさんが、あの人を自分の寝室に引取ってくれたから、それでようござんしたとも、いけませんでしたとも、お松としては言えなかったものですから、そのまま暫く無言で、船長室へ引返す駒井甚三郎のあとに従い、無言でたじたじと引返すよりほかはありませんでした。
 そうして、お松は親柱のところへ来ると、また、思わずギョッとして立ちすくんでしまい、
「まア――」
 檣柱《ほばしら》の下の俵を積んだ上に、人が一人、黙って坐り込んでいる。
「茂ちゃんじゃないの」
「あい」
「まア、お前――」
 お松は、呆気《あっけ》にとられました。出鱈目《でたらめ》のうちの出鱈目、饒舌《じょうぜつ》のうちの饒舌である清澄の茂太郎が、ほとんど化石の彫刻みたように、チョコンとしてその俵の上にのせられたもののように坐っていたからです。
 熟睡していた人
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