に、あんまり身が入り過ぎて、他の多くのかんじんなことを、すっかり忘れ去ってしまっていたことに、我ながら苦笑いをしました。
そのうちの最初として、今晩たずねて来る口約束になっていた、あの名取川の蛇籠作《じゃかごづく》りの変な老爺《おやじ》――こっちは話に夢中で忘れてしまってはいたが、先方は、自分から念を押して今夜はかならずやって来るとあれほど言っていたのにまだ訪ねて来た様子はなし――責めは先方にあるのだ、と独文句《ひとりもんく》を言ってみたりしました。
八
まあしかし、明日という日もあるし、何とか沙汰があるだろう――と白雲は、タカを括《くく》って、その美しい夜具に身をうずめると、まもなく夢路の人となりました。
旅の疲れと、夜更しとで、かなりの熟睡に落ち込んで行ったはずの白雲が、夜中にふと眼をさましたものです。夜中とはいうけれども、寝に就いた時が、もう暁間近になっていたかも知れません。
ふと、眼がさめた途端、まず鶏の啼《な》く声が耳に流れこむと一緒に、有明《ありあけ》をつけて置いた朱塗の美しい行燈《あんどん》がぼんやりと――そうして、その行燈の下にうずくまっている怪しいものが一つ――睡眼に触れると、さすがの白雲がハッと身を起して、枕許の刀をとろうとしたのです。
「何者だ!」
白雲として、自分ながらかなり慌《あわただ》しい挙動であると思ったが、事態、そうしなければならない場合を、先方は全く静かなもので、
「先生、お静かに」
と、たしかにうずくまった奴が、説教でもはじめるように物を言いかけました。
「何だ、何者だ、貴様は」
白雲は半分起き直って、刀を引寄せていました。そうして、もう睡眼がパッと冴《さ》えた眼で見ると、行燈の下にうずくまっている奴は、旅の合羽《かっぱ》を、肩からすっぽりと着て、頭には手拭を米屋さんかぶりに捲いている。
「先生、お約束によって参上いたしましたが、少々遅くなって相済みません」
でも、まだ白雲には、はっきりと納得《なっとく》ができない。
「貴様、どろぼうの端くれだな、貴様たちと約束をした覚えはない」
大抵のどろぼうならば、この豪傑画家の白雲から一喝を食えば、尻尾を捲くであろうのに、こいつに限ってどこまでも、いけ図々しい。
「お忘れあそばしましたか、日中、あの名取川の川原でお目にかかりました、蛇籠作りの老爺《おやじ》でございます」
「うむ、そうか」
白雲がまたここで、そっくり[#「そっくり」に傍点]返らざるを得ません。
そうか、そんならそうと、なぜ早く言わないのだ。それにしても、いよいよ変な老爺だ、いったい、いつ、どうして、この間《ま》に、誰に案内されて入って来たのだ――というその咎《とが》め立ても、こうなっては気が利《き》かない。そこを先方が、いよいよいけ図々しく喋《しゃべ》りました、
「夜分、あんまり遅くなりましたものでございますから――いえ、その実は、こんなに遅く参ったのではございませんが、先生が、あの御婦人様と、あんまりお話に身が入っておいででございましたから、ついあの時に、御案内を申し上げる隙《すき》がございませんで、で、つい、こんなに遅く上りまして、あいすみませんことでございます」
「なに、では貴様、なにか、拙者がこの家の女主人と対話をしていた時分に来ていたのか」
「はい――あんまりお話が持てておいでなさいますから、お邪魔になってもなにと存じまして、いったん出直して、また上りました」
「ふーむ」
白雲は、そこにうずくまっている物のかたまりを、うんと睨《にら》みつけていました。遅くなって上りましたはいいとしても、夜更けたゆえ、案内を頼むことに気兼ねをして直接にやって来たのも、まあこの際ゆるすとして、いったいそのザマはそれは何だ、旅ごしらえのままで人の座敷へ侵入して来て、とぐろをまいたようにうずくまり込み、そうして、頭にまいた無作法な、下品な手拭かぶりを取ろうともしない挨拶ぶりは何だ。
白雲は、いまさらその辺を咎め立てするのもドジを重ねるような気がしていると、
「先生、実は、わたくしも忙しい体だものでございますから、このままで失礼をさせていただきますでございます――で、手っとり早く川原のお話の続きを申し上げますと、駒井の殿様は今明日のうちに石巻の港へお着きになる、それからあの殿様の御家来や、居候といった一味のものもみんな同じお船でおともをして参ります、田山先生だけが御不足でございましたが、それもこうしてお目にかかれる、もはや申し分はございません。そこで、この七兵衛――いや、この蛇籠作りの老爺も、追っつけあとから馳《は》せ参じさせていただくのでございますが、先生のお荷物、それからお書きになった品々などは、私が取りまとめて、船へおのせ申すものはおのせ申し、わたくしが持って参りましたものは一切、行李にしまいまして、石巻の田代屋という宿にあずけてございますから、あれへおいでになってお受取りを願います。残らず始末を致して参りましたはずでございますが、もしや、一品二品、取残しがございましても、あんな際の時でございますから、ごかんべんが願いたいので……ともかくも、石巻の田代屋というのをたずねてお越しになって、駒井の殿様のお着きをお待ち下さいませ」
態度のいけ図々しいのに反して、その取りしきりぶりと、物言いとは、行届ききったもののようですから、白雲がいよいよ手がつけられない気持がしました。
「うむ、そうか、それは何から何まで厄介千万になったが――お前という男は何者だ」
「いや、それは、あとでお船のうちで、ゆっくりと身の上話を聞いていただく時節がございましょう――とにかく、これだけのことを申し上げて置きまして……」
「そうして、お前はなにか、これから旅立ちをしようというのらしいが、どこへ行くのだ」
「いいえ、旅立ちというほどじゃございません、ちょっと、この辺をかけめぐってみたいような虫が起りましたものでございますから。なあに、病気がなおりますと、直ぐにまたあなた様のおあとを追いかけて、石巻へ参ります」
「そうか」
白雲は、それよりほかに何とも言いようがない。憮然《ぶぜん》として、なお燈下にうずくまる男を見下ろしていると、右の老爺《おやじ》は平蜘蛛《ひらぐも》のような形をしているのが、気のせいか、見ているうちに平べったくなって、畳にべったりくっついてしまっているように見えて、白雲も少し気味が悪いような気分にさえなりました。
ぴったりと畳の上へ、一枚になって、吸いついた形になって、顔だけを上げて、蛇籠作りの老爺は、
「時に先生――」
いやに改まった物の言いぶりです。
「何だ」
「承りますと先生は、あの赤穂義士の書き物がたいそうお好きだそうで……」
「ナニ、赤穂義士の書き物――そんなものは別に嫌いではないが、改まってきかれるほど好きではない」
「でも先生は、仙台様の御宝蔵にあって、たとえ将軍家が御所望になってもお貸出しをなさらない赤穂義士の書き物を、一目見たい見たいとおっしゃったようにお聞き申しましたがな……」
「こいつ……」
白雲が罵《ののし》ったのは、怒ったからではありません、呆《あき》れ果てたからです。思わず眼をまるくして「こいつ」と前置をして、
「それをどこで聞いた。赤穂義士ではない、支那の王羲之《おうぎし》といって、支那第一等の書家だ。その書が仙台家にあるそうだから、それを見たい見たいと言ったには相違ないが、それを貴様、どこで聞いていた」
「いや――その、ちょっと、失礼ながら立聞きを致しました。先生が、それほどにごらんになりたがるほどのものならば……と、この老爺、またしても持って生れた病がきざして参りましてな」
「ナニ、何がどうしたというのだ、仙台公秘蔵の王羲之は、国主大名将軍といえども借覧のかなわないものだから、是非に及ばない。それがどうしたというのだ」
「へ、へ、へ、実は、この老爺も乗りかかった船でございますから、まあ、止せばいいんでございますがね、持った病でございましてな――人の見られないものを見たい、人の持てないものを持ってみたいなんぞと、ガラにない山っ気がございますものですから、まこと仙台様の御宝蔵のうちに、国主大名将軍様でさえも拝見のできない品とやらがございますならば、ひとつ何とかして、ちょっとの間でも、それを……何とかして……」
「馬鹿――何とかしてと言ったところで、貴様|風情《ふぜい》に何となる」
「そこのところを、何とかして、ここ二三日のうちに……駒井の殿様のお船がおつきになるまでの暇つぶしに――と申しては勿体《もったい》のうございますが、できないはずのそのお宝を、それほどの御所望でいらっしゃいますから、それを一目なりと、あなた様のごらんに入れて――それからまた思召《おぼしめ》しによっては、元通り、どなたにもわからないように、もとのお蔵へ返して置いて上げたいと、こんな、いたずら心が出たものでございますから、ちょっと、御念を押しに参りましたようなわけで……では、それは赤穂義士じゃございませんでしたか、支那の王羲之という支那第一等の字を書く方、その方のお筆になった巻物――それだけでよろしうございますね。はい、承知を致しました、やり損ないは御容捨を願いまして……」
「うむ――貴様」
田山白雲は徒《いたず》らに眼をむいて、大きな唸《うな》りを発するのみであります。
その時にまた鶏が啼きました。そうすると、平べったくなっていた老爺が、急にのし上り、
「では、これで失礼を致します、御免下さいまし」
すっくりと立って、障子の隙間から――事実は相当にあけて出て行ったのですが、白雲の眼からは、あのままで、畳の中へ吸いこまれてしまったのか、でなければ、障子の隙間から消えてしまったようにしか受取れないので、やっぱり眼を光らして呆れ返って、さて、ホーッと太い息をついたのみであります。
九
駒井甚三郎の無名丸《むめいまる》が、あれからああして、無事に牡鹿郡《おじかごおり》の月ノ浦に着いたのが、洲崎を出てから十四日目の夜のことでありました。
着船は、わざと夜を選んだのは、駒井の思慮あってしたことでしたが、無論その前後、この辺の漁船商船が、駒井の異形なる船の出現を怪しまないはずはありません。
だが、朝になって見ると、その船の上に、仙台家の定紋《じょうもん》打った船印が立てられてあることによって、浦の民が安心しました。
御領主の御用船とあってみれば、文句はないのですが、駒井がそうして無断に仙台家の船印を濫用してよいのか、一時の策略で、それを利用してみても、あとの祟《たた》りというものはないか。
その辺には、駒井としては充分の遠謀熟慮があってのことだろうから、それは憂うるに足りないことでした。第一、船つきをこの月ノ浦に選んだということにしてからが――故意でも、偶然でもなかったのです。
そもそも、この月ノ浦というのは――それを説明する前に、溯《さかのぼ》って、東北の独眼竜伊達政宗を説かなければならないのですが、そうすると記述が徒らに肥えて、ロマンの肉が痩《や》せる。ただ、伊達政宗が、その昔、この港から、ローマへ使節を遣《つか》わした港であるということだけを、とりあえずしるして置く。
そうして駒井甚三郎は、かねて海外に志ある人としての伊達政宗をかなり研究していたところから、一つはその思い出のために、この由緒《ゆいしょ》ある港を選んで着船したものと見て置いていただいてよろしい。
本来ならばこの船が着くと同時に、真先かけて、はしけに立っている七兵衛の姿を見なければなりませんのですが、それが見えないことが、誰よりもまず清澄の茂太郎を失望させました。
茂太郎は船の舷上に立って、左の小腋《こわき》には例の般若の面をかかえたまま、呆然《ぼうぜん》として爪を噛んで陸地の方を見つめたままです。
「なあーんだ、七兵衛おやじが来ていないや」
これが着いたその夜のことです。夜のことでも、漁村と漁船には点々たる火影《ほかげ》が見えないというこ
前へ
次へ
全23ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング