入っている。その四分目ほどは、先日、お絹から振舞われた覚えがある。その残りの部分をお絹から壜を取り上げられて、「もう、いけません、お預けですよ、このお酒は強いから、毎日、このくらいずつ、わたしがくぎって飲ませて上げます」と蔵《しま》いこまれたのを覚えている。それを主膳は覚えているから、これだと思って、栓をとって、グッと飲み出したのですが、その時に、さすがの主膳も、一時《いっとき》、
「カッ!」
と口と咽喉《のど》を鳴らして、飲んだ分を一時に吐《は》き出し、壜をおっぽり出そうとしたほどに、酒の強烈な力におそれました。強い酒とは知っていたが、これほど強いものだとは思わなかった。
 しかし、いくら強くても酒は酒に相違ない。毒物でないということは、主膳の経験に於ても、強いながら口当りにもわかるものですから、二口目はやや注意して、そろりそろりと飲みました。
 そうして、この何というかわからない強烈な酒の残り六分ほどを主膳が、そろりそろりと忽《たちま》ち飲みつくしてしまうと、眼がクラクラとしました。クラクラとしたけれども、毒に当ったのではない、やっぱり酔心地に相違ない。瞑眩《めいげん》のうちに陶酔を感じながら空壜をおっぽり出すと共に、またそこいらをガラガラひっかき廻しているうちに、ふと、折込みの舶来のガラス鏡を発見し、
「ははあ、こいつ、お絹のやつが異人からせしめたのだな」
と言って、くりひろげる途端、思わず自分の面《かお》がうつると、明々瞭々たる三ツ眼!
 累《かさね》ではないが、それ以来の主膳は鏡を見ることを嫌う。お絹がお化粧をしているところへ通りかかって、つい自分の顔が鏡面に触れた瞬間などは、あわててそれを避ける。日本の鏡はうつすにしても、もっと親切だが、このガラス鏡は強烈だ、いぶしも雅致もなく、醜態そのままをすっかりうつしてしまう。主膳はかっとなって、そのガラス鏡を畳の上に叩きつけたが、叩きつけられて裏返しになった鏡の一面に、また鮮かな絵がある。それは酔いと物狂わしさにボケた主膳の眼にも、ハッキリと受取れるところの絵模様。
 肌のすてきに美しい裸女が一人、一糸もかけずに嬌態《きょうたい》を長椅子にもたせて、一種異様な笑みを浮べている。
 神尾が三つの眼で、一ぺん叩きつけた鏡の裏絵を見つめました。
「毛唐《けとう》の奴は、裸女を平気で描いて表へ出しやがる、描かせる奴も描かせる奴だが、描く奴も描く奴だ、こん畜生!」
と言いながら主膳は、畳の上の鏡の裏絵の裸体美人へ、自分の鼻先をこすりつけるほどに持って来て、香いをかぐかのようにながめ入りました。
「ちぇッ」
 実際、腹の立つほどうまく描けていやがる、肉がそのまま浮いて出ている、肌の光沢が生き写しになっていやがる、それに、この生《なま》たらしい笑い顔はどうだ、生のものをそのまま取って来て描きやがったのだ、描く奴も描く奴だが、描かせる奴も描かせる奴だ、そうしてこの鏡の裏絵なんぞにして、大びらで世間へ向けて売り出す、不埒《ふらち》千万だ。
 日本の女なんぞは、どんなに恥知らずだって、自分の姿を、裸にして描かせて売らせる奴はない。また、どんな堕落した絵かきだって、女の丸裸物を描いて市中へ売ろうなんぞということはしない。また、たとい売女遊女にしても、色は売るけれども、裸になった姿を描かせるような奴はまだ一人もいない――毛唐はそれを平気でやる。
 毛唐は獣なのだ。だから、女を可愛がるにしても、イキな身なりや、すっきりした姿を可愛がるんじゃない。女を買うにしても、裸にしなけりゃ満足ができないのだ。遊ぶにしたところで、蘭燈《らんとう》の影暗く浅酌低吟などという味なんぞは、毛唐にわかってたまるものか。あいつらは、女を玩《もてあそ》ぶに、女を裸にして玩ばなければ満足のできないやからなのだ――ちぇッ、いいざまをして、この女《あま》め、笑ってやがる、小憎らしい笑い方だなあ――
 主膳はこう言って、三眼|爛々《らんらん》として、西洋婦人の豊満な肉体美をながめているうちに、その女のかおかたちがだんだんお絹に似てくる。お絹でありようはずはない、第一、頭が金髪で、色の白さは似ているとしても、その肉づきがお絹でないことはわかりきっているが、嬌然《にっこり》笑っているいやらしい笑い方が、だんだんとお絹の面になってくると、肉体そのものまでが異人ではない、明暮《あけくれ》自分のそばにいるあの模範的の淫婦娼婦だ。
 そう思ってくると、その笑い方が、からかい気味になったり、思わせぶりになったり、いやがらせ気味になったりして、主膳をなぶって来る。
「ちぇッ」
 主膳の三ツ眼はクルクルとして、その絵の傍へもう一つの幻影をこしらえて、それを燃ゆるような眼で睨《にら》み出しました。もう一つの幻影というのは、そこへ、赤髯《あかひげ》の大きな脂《あぶら》ぎったでぶでぶの洋服男が一つ現われて、いきなり、裸体婦人の後ろから羽掻《はがい》じめにして、その髯だらけの面を美人の頬へ押しつけて、あろうことか、その口を吸いにかかったのです。幻像がそうなった時、こんがらかった主膳の三ツ眼が全くくらくらとして、手が早くも躍動すると、無茶に畳に落ちた折鏡の全体を拾い取り、力を極めて、発止! と投げつけたのが日頃お絹が身だしなみをするところの丸鏡の正面であります。
 在来の鏡台にかかった日本の鉄製の磨かれた丸鏡と、舶来の四角なガラス鏡とが発止とかみ合って火花を散しました。しかし、どちらがどれだけ損害の程度が大きかったかということなんぞに頓着もない主膳は、それから自分の部屋へ走り戻ると、急いで衣服を改め、わななくような手つきで足袋をはき、紙入を懐中へ押しこみ、それから大小をさし込み、頭巾《ずきん》をかぶりこみ、いよいよ本物の物狂わしい気色《けしき》になって、この屋敷の裏門から、ふらふらと外へ出かけて行ってしまいました。
 その後ろ姿を見ると、ふらふらとして、まさしく物につかれたような姿で、どうかすると、机竜之助がこんな姿で人を斬りに出かけることがある。
 その後ろ姿を、庭に遊んでいた子供たちがきわどいところで認め、
「あれ、殿様が、どっかいらっしゃるよ、わたしたちにはだまってさ」
「ああ、三ツ目錐《めぎり》の殿様が、ないしょでどこへかいらっしゃるよ」
「こっそりとね――おかしいわね」
「きっと吉原へ行くんだよ」
「そうだわ」
「そうに違いないよ」
「頭巾をかぶってさ」
「吉原よ」
「吉原たんぼは水たんぼ」
「吉原へ何しに行くの?」
「きまってるじゃないか、お女郎買いにさ」
「あ、そうだ、よしんベエを買いに行くんだろう」
「そうなんだね」
「そうよ」
「そうにきまってるよ」
「憎らしい殿様、ビビ――」
と女の子の一人が、眼をむいて、主膳の後ろ姿に向って唇を突き出すと、
「ビビ――」
 寄っていた子供たちが、すべて、出て行った神尾の後ろ姿に向って、眼口を突き出しました。
 こうして、屋敷の裏門を出た神尾主膳は、子供たちの想像するように、必ずしも吉原へ行くものとは受取れない。
 根岸の里をふらつき出した神尾主膳は、どこをどう踏んでいるのだか、自分でもよくわかってはいないらしい。ふらふらふらと、人通りのないところ、或いは人通りの劇《はげ》しいところを、無性に歩いて来たが、あるところで、
「駕籠屋、築地の異人館まで急いでくれ、異人館、知っているだろう、赤髯の巣だ、毛唐が肉を食っているところだ、行け行け、異人館へ乗りこめ――酒料《さかて》はいくらでも取らせてやる」
 やがて威勢のいい駕籠の揺れっぷりで、神尾主膳の身はかつがれて宙を飛んで行く。
 その行先は、もうわかっている、すなわち築地の異人館。



底本:「大菩薩峠15」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 九」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月20日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年1月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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