んでいる男があるなという印象が、なんとなく眼にうつりました。
と同時に、こちらの瀬には、魚を捕るためのやな[#「やな」に傍点]がかけてあるのを認めました。単にそれだけのことで、川岸で、筏《いかだ》を組んだり蛇籠を編んだりすることはあたりまえの光景なのであり、川の中にやな[#「やな」に傍点]をかけて魚を捕ろうとしていることも、名取川特有の風景でもなんでもないけれども、それがなんだか、白雲の眼に、どうも特有な風物のようにうつったものですから、歩みをとどめて、このやな[#「やな」に傍点]のところまで歩いて行って見ました。
そうして、その附近をのぞいて見ると、鮎《あゆ》がかなりにいることを発見しました。ははあ、鮎がいるな――今の飯屋で食わせたのも、焼いて乾かした鮎であった。瀬の清い、流れの早い川に鮎がいることは不思議でもなんでもない――この名取川には、特有の鮭《さけ》の子もいるということを聞いた。それよりも、名取川の名そのものと切っても切れない埋れ木というものがこの川から出るのだ――はて、鮎のほかに鮭の子はいないか。もし、その辺に埋れ木のひねったやつが頭を出してはいないか。
そんなことで、無心にその辺の淵をのぞき込んでいると、背後《うしろ》から、
「もし、あなた様は、田山白雲先生ではいらっしゃいませんか」
「えッ」
白雲が、ぎょっとして後ろを向くと、いつのまにか背後に歩いて来ているのは、それは、確かに、いま、ついそこの柳の下で蛇籠を編んでいた老人に相違ないと直覚しました。だが、かぶっている笠をとりもしないで、鉈《なた》を腰にさしながら、小腰をかがめている人体《にんてい》は、思ったほど老人ではありません。
「お前は誰だ」
「田山先生でいらっしゃいますか」
「わしは田山だが、お前さんは?」
「ああ、それで安心を致しました、私は近頃、駒井の殿様の御家来分になった田舎老爺《いなかおやじ》めにございまして」
「駒井殿の……」
改めて、白雲が、その老爺の面《かお》を見直しました。面を見直すまでもなく、それはもう言葉でわかっている。この辺では聞き慣れない関東弁ですから、耳を疑う余地はありませんが、そんならばこの老爺が、駒井甚三郎の家来分だというこの老爺が、なんのために、こうして、こんな奥州の名取川の岸で、悠々閑々と蛇籠なぞを編んでいるのだ。
白雲は、油断のならない眼をもって、この老爺の面を見ていると、老爺は存外、落着いたもので、
「田山先生、何はともあれ、申し上げなければならないことは、駒井の殿様は、あなた様の御出立中に、洲崎《すのさき》をお出ましになってしまいました。手ずからお作りになりました、あのお船で……」
「ナニ、駒井殿が、あの蒸気船で洲崎を立たれたと、どうして、そう早急《さっきゅう》に……」
「はい、土地の人気が悪くなりましたものでございますから、大急ぎで人数を取りまとめて、船おろしと船出を一緒になさいました、あなた様をお待受け申している間もございませんでした」
「うむ――」
「それで、わたくしが、あなた様のおあとを慕って、このことをお知らせ申し上げようと請合《うけあ》ったようなわけでございましたが、運よくここでお目にかかれて、こんな嬉しいことはございません」
「なんだか、遽《にわ》かに拙者のまわりで、廻り燈籠《どうろう》を廻して見せられているようで、とんと面食った気持だが、そう言われると、そうありそうなことじゃ。それで、駒井氏は洲崎を船出して、どちらへ行かれたか」
「はい、それが、その、このつい御近所の石巻の港を目あてに乗出しておいでになりました」
「ナニ、石巻――なるほど、駿河の清水港へ行こうか、仙台の石巻へ行こうかと駒井氏は常々言われていたが、して、なにかな、もはや石巻に到着しておられるのか」
「いや、それが、たしか今明日中には御無事にお船入りのはずなのでございます」
「それはそれは――で、なにかな、あの番所に居候の連中は、みんな同じ船に乗込んで来たのか」
「はい、一人残らず、茂太郎も、金椎《キンツイ》さんも、マドロス君も、もゆるさんも――それから、お松に、登様――土地の船頭さんたち」
「おお、それはそれは――それを知らないで、このまま房州へ舞い戻ろうものなら、飛んだあとの祭りを見せられるところであった、よくお前さん、知らせておくんなすった」
「お話し申し上げると長うございますが……」
この時、遥かにみとおしのきく河原の両岸を見ると、こしかたの方からは、さいぜん飯屋へ出張したらしい岡っ引が先に立って、村役人らしいのを数名|引具《ひきぐ》して、こちらへ取って返して来る様子。それからまた一方には、槍を押立てた同勢が、長町の方から物々しげにやって来る。
それを見ると、右の蛇籠《じゃかご》作りが、多少そわそわし出して、
「のちほど、ゆっくりお話し申し上げましょう。今晩、先生は、どちらへお泊りでいらっしゃいますか」
「わしかい――まだどこといって、宿はきまらないが、とりあえず、大町の高橋玉蕉という女の学者のところをたずねて参るつもりだ」
「大町の高橋先生とおっしゃいますか」
「そうだ、女で有名な学者――それに家はなかなか金持の商家ということだから、そこをたずねて来ればわかるだろう。もしまた、別に宿を取った時は、その家へ申し置くから、わかるようにして置く」
「よろしうございます、私は、只今のところ、仕事が少々|忙《せわ》しうございますから、今晩――夜分も遅くなるかも知れませんが、必ずお伺い致しますから、おかまいなく、お休みになってお待ちくださいませ」
「うむ――では」
と言っているうちに、右の蛇籠作りは、大忙しがりで、ついそこの柳の木の下へ引込んでしまい、そこで、以前の通り一心に蛇籠を編み出したものですから、白雲も、ちょっと手のつけようがなく、そのまま川原道を急いで行くと、やがて、前から来た槍の同勢と、後から来た岡っ引の連中との間にはさまれたような形になりました。
だが、別段、問題は起りません。白雲は川原道で、この前後の勢を無事にやり過して、自分は悠々閑々と歩いて行きながら、ふと、柳の木の下を見ると、蛇籠作りが一心不乱に蛇籠を編んでいるのがかすかに見られて、別段の異常を認めません。
槍の一隊はと見ると、もう向うの岸についてしまって、自分が語学の稽古をした一ぜん飯屋の庇《ひさし》に槍を立てかけて、それぞれ休んでいる姿までが、豆のように見えているだけのものです。
五
川を渡りきって、白雲、途《みち》すがら思うよう、さては、駒井も洲崎にいたたまれなくなったのだな、どちらにしても、あそこが永住の地でないことはわかっているが、しかし、あわただしく出船を余儀なくされたというのは、駒井にとっては不祥だ。
人間、馬鹿では楽ができないけれども、また、あんまり頭が進み過ぎていても、楽はできないものだ。駒井ほどの英才が、当世と相容れないのは、これも一つの人間界の約束ごとかも知れないが、由来、独創の気というものは不遇の茨《いばら》の中から開けるものだから、駒井のこれからも前途の方が、なまじい衰えかけた幕府のお役人をつとめて当世に時めいているより、どのくらい意義もあり、興味もある生涯か知れないのだ。
思いきって、この石巻へ来たとか来るとかいうのは、この際、よいことを聞いた、またよいことを知らせてくれたものだが、あの知らせてくれた蛇籠作りの老爺《おやじ》こそ、全く解《げ》せないへんな奴だよ。なんにしても近々思いがけないところで駒井に逢えるのだ、そうして、もはや、自分に於ても、房州へ取って返す必要はなくなってしまったのか――それはいいとして、房州にはかなり自分としての財産を残して来たはずだが、あれはどうなったろう、まさか暴民どもに焼討ち、掠奪の憂目を蒙《こうむ》ったとも思われないが、いや、蒙ったにしたところで金目にしては知れたものだが、丹念にして置いた写生帖だけは、自分としてかけ替えがないからな、そこで多少の心残りが房州にないことはない。うむ、よしよし、それもあの蛇籠作りの老爺が知っているだろう、今晩、たずねて来ると言ったが、急にそわそわした様子がおかしいけれど――まあ、今晩来たらつかまえて、委細を聞いてやる。
こんなことを考えながら、田山白雲は、中田、大の田より長町――ここはもう仙台の城下外れです――大町というのを苦もなくたずね当てて、そこで、とりあえずまずおとのうてみようと心がけた高橋玉蕉女史をたずねると、これも難なく――これは大きな商家で、女史は宮城野の別宅にいるとのことですから、改めてそこをたずねると、ちょうど在宅でもあり、また極めて歓迎もしてくれました。
女史の住宅は数寄《すき》をこらした家です。それよりも、白雲を驚かしたことは、玉蕉女史が本当の美人であることを見たからです。
美人に、ウソの美人と本当の美人があるかどうかは知らないが、世にいわゆる才色兼備の婦人などといっても、才の方はとにかく、色の方は大割増がしてあるのを通例とするのに、玉蕉女史に限って割引なしの美人でしたから、白雲がおもはゆく思いました。
女史が学者であるということを知らないで見れば、それ[#「それ」に傍点]者と見たかも知れないほど粋《いき》な美人でした。もはや四十の坂を越していようと思われるのに、姿、かたち、どう見ても二十台で通るのです――それに、永く江戸で修業して、婦人の身で塾を開いて、生徒を教えていたというほどですから、その応接もことごとく江戸前で通り、白雲をして、俄仕込《にわかじこ》みの奥州語を応用せしめる必要は少しもありませんでした。
女史は、この遠来の客を欣《よろこ》んで、相語るほどに、両々の興味が加わって、話はいつ果つるとも覚えません。
その夜も――夜もすがら、語っても語っても尽きないものがありました。
「そういうわけで、拙者の奥の細道は、狩野永徳というそぞろ神にそそのかされたのですが――明日はとりあえず、観瀾亭へ行って永徳に見参したいと思うのです、簡単に許されましょうかな」
こういって女史にたずねると、女史は、
「それは容易《たやす》いことです、月見御殿の拝見ならば、よい伝手《つて》がございますから、わたくしが御案内を致しましょう、山楽の襖絵といわれますものは、わたくしもかねて拝見は致しておりましたが、あなた様と御一緒に拝見すれば、またよい学問を致します」
「いや、それは恐縮です、拙者こそ、あなたのような学者に、御自身案内をしていただくということが、はからざる光栄でした。明日は、扶桑《ふそう》第一といわれる松島も見られるし、あこがれの狩野永徳にも見参ができるし、それに東道の主人が稀代の学者であり、絶世の美――」
と言って、田山白雲が、少しあわてて口を抑えたけれども、その尻尾が少し残ったものですから、玉蕉女史を追究させました。
「絶世の――何でございますか、扶桑第一の松島や、狩野家の大名人の次へ持って来て、絶世の……だけでは罪でございますね」
玉蕉女史からからかわれて、田山白雲が、今度は額を抑えて、
「あ、は、は、は」
と声高く笑いました。玉蕉女史も、またつり込まれて無邪気に笑いました。田山白雲はそこで申しわけのように、
「全くあなたは、絶世の美人と申し上げてもお世辞ではありませんよ。実は、あなたが怖るべき才色兼備の御婦人ということは、紹介された者の口から、よく承って来たのですが、案外なのに驚かされました」
「どうせ案外でございましょう、いったい仙台は、昔の殿様が高尾を殺した祟《たた》りで、美人は生れないのだそうでございます」
「いや、違います、全く案外の、掛価なしの才色兼備なのですから――いったい世間では、身投げの婦人があれば必ず美人にしてしまい、甚《はなはだ》しいのは首無し美人なんぞというのもありましたが、婦人で、学問がある、歌がよめるというと、おきまりに才色兼備にしてしまうのが慣例になっていまして、才の方はとにかく、色の方は大割引しなければ受取れないのが通例なのに、あなた様だけは、割引なしの美人で
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