らしました。
お松は、それを、この場合、重大なる心抜かりであったように思われないではありません。この「失敗《しま》った!」の一語が、仏兵助という桶屋さんの口から出たならば、七兵衛おじさんの方にまだ脈があるのですが、万一この「失敗った!」が、七兵衛おじさんの口から出たものならばどうしよう。お松はその時、胸の上へガンと金槌《かなづち》をぶっつけられたような気持がして、もう、意地も、我慢も、見栄も、分別もなく、隠れ場から走り出してしまいました。
そうして、格闘の現場へ飛び込んで見なければならない気持に追われて、丸くなって飛び出したその出端《でばな》を、ふわりと抑えるものがありました。
「おや?」
それを払い除けようとしてみると、そのものが、いよいよ和《やわ》らかく、自分の面《かお》をすっぽりと包んでしまいました。
それは、誰か大きな人か、出家の身に相違ありません。その人が、お松のかけ出した出端を、その大きな法衣《ころも》の袖で、包んで抑えてしまったものだということが、直ちに分りましたけれども、その坊さんが誰であるかはわかりません。
ただ、こうして自分を抑えてくれたことに、充分の好意をもってしてくれる証拠には、その法衣ざわりが全く和らかで、最初から窒息させるつもりもなく、抑留の気分もなかったことでわかります。それは獲物《えもの》を捕えるために張った蜘蛛《くも》の巣でないことはわかっているが、さりとて、お松の力でこれを払い除けて走ることは、その法衣の袖が和らかに出でてあるほどにかえって、困難なことでありました。そこで、お松としては、あのすさまじい現場へ走り込むことを遮《さえぎ》られたのみか、その現場を見届けることをさえ抑えられてしまった形で、どうすることもできないで、全くその瞬間だけは、蜘蛛の巣にかかった小蝶と同じような運命に置かれました。
二十
これより先、田山白雲が、今日は少し早目に宿へ帰ってしまったのは、不意にやって来た清澄の茂太郎の足もとがあぶなっかしいので、それが心配になるのと、もう一つはかねて約束が一つありました。
仙台の閨秀詩人《けいしゅうしじん》、高橋玉蕉女史の招待で、今晩あたり松島の月を見ようとの誘いを受けていたものですから、その心がかりもあって帰って見ると、果して玉蕉女史から使がありました。
少し時刻は早いが、観瀾亭《かんらんてい》の下から船を出すことにしましたから、おいでを願いたい――とのことです。白雲は胸を打ってよろこびました。
「田山先生」
そこへ、茂太郎とムク犬が馳《は》せつけて来ている。
「お前ドコにいた」
「五大堂で少し遊んで来ました。田山先生、これからまた、どこへかいらっしゃるの」
「うむ、お月見に行くのだ」
「まだお月様は出ていないじゃないか」
「うむ、これから船で沖へ乗り出すと、ちょうど月の出る時分になる」
「洒落《しゃれ》てるね――あたいをつれてって頂戴」
「うむ――」
「いいでしょうね」
「わしはかまわないが、人から招《よ》ばれたのだから」
「御招待なの? だって、かまわないでしょう、あたいとムクが先生のおともだって言えば」
「そうさなあ――」
「いいでしょう。さあ、ムク、これから先生のおともをして、船で松島のお月見としゃれこむんだよ」
「まだ、独《ひと》り決めをするのは早い、先方の同意を得た上でなければならん」
「先方だって、先生のおともだと言えば、いやとは言わないでしょう」
「あんまり騒々しくしてはいかん」
「お月見の御招待だから、お酒も出るでしょう、歌をうたっていけないということはありますまい、その席上で、あたいが歌をうたい、踊りをおどって興を添えてあげます」
「生意気なことを言うな」
「だって――わざわざ芸人を呼んで興を助ける人さえあるんだから、あたいが只で歌って踊ってあげれば、お呼び申した方も喜ぶだろう」
「無茶を言うなよ――だが、あんまり騒々しくせず、邪魔にさえならなければ、お頼み申して連れて行ってやる」
「では行きましょう、その月見のお舟はどこから出るのです」
「観瀾亭の下から」
「観瀾亭というのは、お月見御殿のことなんでしょう、行きましょう」
茂太郎は、むしろ白雲の衣を引っぱるようにして、月見船まで促し立てました。相変らず生意気な小僧めとは思いながら、この小僧をつれて行くことは、必ずしも風流の邪魔にはならないで、相手が稀代の風流婦人だけに、時にとって意外の手土産になりはしないかとさえ思われました。
こうして、茂太郎とムクとにからまれながら田山白雲は観瀾亭の下まで来ると、果して風流数寄な屋形舟[#「屋形舟」は底本では「尾形舟」]が一つ、ちゃんとろかい[#「ろかい」に傍点]をととのえて、酒席を設けて待構えていました。酒席の上には、当然、東道の主《あるじ》なる閨秀詩人が、今日は薄化粧して嫣然《えんぜん》として待ちかねている。物慣れた老女が一人かしずいて席を周旋し、老船頭が一人船をあずかって迫らない形をしている。
「田山先生、ようこそ」
「いや、どうも……恐縮です」
白雲がいたく恐縮をしてしまいました。ことには、いかなれば旅絵師のやつがれ風情に、今日はこうして扶桑《ふそう》第一といわれる風景のところに、絶世の美人で、そうして一代の詩人に迎えられて、水入らずにお月見――美酒あり、佳肴《かこう》あり、毛氈《もうせん》あり、文台がある。山陽、東坡のやからすら企て及ばざる風流韻事の果報なり、と心を躍《おど》らせずにはおられません。
「時に、玉蕉先生、一つお願いがあるのですが」
「改まって、何でございます」
「ここに一人の少年と、一頭のムク犬がおります、拙者の従者なのですが、画舫《がほう》の片隅へ召しつれて差支えございますまいか」
「ええええ、差支えございませんとも」
「では、茂――ムク――」
白雲は茂太郎とムクとをこの船に引きずり込み、やがて、風流|瀟洒《しょうしゃ》たるこの月見船は、松島湾の波の上を音もなく辷《すべ》り出しました。
果して、興は船の進むと共に進みました。美酒佳肴の用意も申すまでもなく、丹青翰墨《たんせいかんぼく》の具まで備わらずということはありません。
興に乗じて、白雲は筆をとって直ちに眼前の景を描きました。
「これへ一筆――」
玉蕉女史に向って賛を求めると、女史も辞することなく達筆をふるいました。
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絶奇造化思紛々(絶奇なり造化、思ひ紛々)
位置如棋島嶼分(位置は棋の如く島嶼分る)
最是風光難画処(最もこれ風光の画き難き処)
落霞紅抹万松裙(落霞紅に抹《は》く万松の裙《もすそ》)
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それから白雲が随って画けば、玉蕉が随って賛をする――二人が詩興画趣のうちに全く陶酔して行くのはやむを得ないことですが、
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オイセとチョウセ
オイセとチョウセ
オイセとチョウセ
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清澄の茂太郎が、けたたましい声を上げて突如として舟べりをゆすりはじめたのは、風景の美に打たれての感興か、それとも、美人と画家とが、自分たちだけ詩興画趣に陶酔していて、我々に頓着しないのに、いささかの嫉妬と退屈とを感じ出したのか、とにかく、茂太郎の破調が、ちょっと船の中を驚かせました。
「茂、静かにしろよ」
田山白雲は、うつろ心で叱ってみたけれども、茂太郎は頓着なく、
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オイセとチョウセ
オイセとチョウセ
オイセとチョウセ
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この即興と反芻《はんすう》とを兼ねた小天才は、この単句をどこから見つけ出したか知らないが、しきりに繰返しては小船の縁をゆすぶっている。
「茂、静かに」
白雲が叱るけれども、この場合はあまり権威がなかったのです。それは玉蕉女史との応酬唱和の興があまりに濃厚であったから、その叱る言葉も、ついつい上の空になって、相手にはこたえないらしい。
それを見兼ねて、物慣れた玉蕉女史介添の老婦人がさし出て来ました。
「坊ちゃん――おもしろい話をして上げますから、こちらへいらっしゃい」
と、茂太郎をあやなしにかかる。
「面白い話」
「あい」
「おばさんがおもしろい話と思っても、人が聞いては面白くないこともありますよ」
「そりゃありますがね、今おばさんがして上げようという話は、この仙台の人でなければ知らない話ですから、よそからおいでた方が聞けば面白いにきまっていますよ」
「仙台の昔話が、そんなに面白いかえ」
「ええ、面白いですとも」
「話してみて頂戴、あたいは、面白くないと思えば決して辛抱して聞かないから」
「こちらへいらっしゃい、話して上げますから」
こうして老女は、茂太郎を自分に近いところへ呼び寄せて坐らせ、それから奥州の昔話をはじめました。
「むかしむかし、ざっ[#「ざっ」に傍点]と昔」
「むかしむかし、ざっ[#「ざっ」に傍点]と昔」
「あるところで婆《ばば》が座敷を掃いていたら、豆が一粒落ちていた。婆が拾うべとしたら、豆はコロコロと転がって行った。婆が拾うべと思って追いかけて行ったら、どこまでも転がって行くので、婆は『豆どん豆どん、どこまでござる』と言って道端《みちばた》の地蔵さんのお堂の中で見失ってしまいました」
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豆どん豆どん、どこまでござる
豆どん豆どん、どこまでござる
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茂太郎は声高く歌い出しますと、それを抑えて老女は語りつぎました。
「そこで婆は地蔵さんに、『地蔵さん地蔵さん、豆が転がって来《きい》えんか』と尋ねますと、地蔵さんが、おれ喰ってしまったとお返事をしたので、婆は帰ろうとしたら、待ってろ待ってろ、いいこと教えてやると、地蔵さんが引止めて、おれの膝さ上れ――と言いました」
「…………」
「地蔵さんから膝さ上れと言われて、婆は『とっても勿体《もったい》なくて、上られえん』と言いますと、地蔵さんが、いいから上れと申しました」
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とってもとっても
勿体なくて
上られえん
膝さ上れ
上られえん
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茂太郎は、老女の昔話のうちの奥州訛《おうしゅうなまり》を面白く心得て、口真似《くちまね》に節をつけて唄い出しました。それに老女はあまり取合わず、
「すると地蔵さんは、いいから上れと言いますから、婆《ばば》は恐る恐る地蔵さんの膝さ上ったら、今度は地蔵さんが、手のひらへ上れと申しました。婆は『とってもとっても勿体なくて上られえん』と言いますと、地蔵さんが、いいから上れと言いました」
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とっても
とっても
勿体なくて
上られえん
とっても
とっても
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茂太郎がうたい出す、老女がかまわず昔話をつづける。
「そこで婆は恐る恐る、地蔵さんの手のひらへ上ると、地蔵さんが今度は、肩の上さのぼれと言いますから、婆は『とってもとっても勿体なくて上られえん』と言いますと、地蔵さんが、いいから上れと言いました」
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とっても
とっても
勿体なくて
上られえん
とっても
とっても
[#ここで字下げ終わり]
茂太郎がまたはしゃぎ出すのを、老女が抑えて、
「そこで婆は恐る恐る、肩の上さ上ると、地蔵さんが、婆や婆や、頭の上さのぼれと言いますから、婆が『とってもとっても勿体なくて上られえん』と言いますと、地蔵さんが、いいから上れと言いました」
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とっても
とっても
勿体なくて
[#ここで字下げ終わり]
今度は老女が茂太郎の合の手を押しかぶせて次を語りました。
「そこで婆は、とうとう地蔵さんの頭の上までのぼってしまうと、今度は地蔵さんが、梁《はり》の上さのぼれと言いました、婆は、とっても、とっても……」
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とっても
とっても
勿体なくて
上られえん
[#ここで字下げ終わり]
今度は茂太郎が、老女の話頭を奪って歌い出したのです。老女も負けない気になって、話を進行させて行きました。
「地蔵さんが、いいから上れと言われたの
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