憾なく蹂躙《じゅうりん》された一大衝動を捲き起したというのは、本意《ほい》ないことであります。
 さては茂公、いよいよまたネジが戻ったかな、七兵衛の姿をでもいずれからか発見して、急にはしゃぎ出したのか、そうではない。
 噪《さわ》ぐべく、歌うべき当人の株を奪って、その騒音は、意外といえば意外だが、さもそうありそうな船内の一角から起りました。例のマドロスが、突拍子もない大きな調子で、だみ声をあげたかと思うと、ガムシャラに歌い出すと共に、足踏み荒くダンスをはじめ出したことです。
 そのけたたましい物音に、一船内がことごとく暁の夢を破られてしまいました。
 夢を破られたもののすべてが、さてはマドロスめ――と、苦々しい思いをしましたけれど、マドロスは一向その辺の遠慮心を喪失してしまったものと見え、濁声《だみごえ》はいよいよ濁り、調子はいよいよ割れ出し、ダンスの足踏みは盛んに荒《あば》れ出したものであります。
「奴、また飲みやがったな」
 船頭二三が歯噛みをしました。事実、マドロスとても、その後はかなり神妙にし、船中でも相当に働き、役にたつ時は羅針盤同様の必要な役目をさえ成し遂げて、ともかく無事
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