してこの夜のことです。はしけ[#「はしけ」に傍点]で迎えに来ないからといって、この見渡す海岸のいずれの地点にかその人が待兼ねていないとも限らないのに、以前の即興があまりに眩燿的《げんようてき》であっただけに、ここへ来ての失望が独断に過ぎるのは、多少気の毒と滑稽を感ぜしめないわけにはゆかないのです。
今や茂太郎はパッタリと、出鱈目も歌わず、即興も叫ばぬ人になってしまいました。尤《もっと》も駒井としては、船がかり中は別して静粛を保つようにと、特に入港の前に申し渡してあるのですが、それを、すんなりと守り得られる茂太郎ではないはずで、船が着く時は、彼の即興がまたネジを戻すものとばっかり思われていたのに、ひっそりとして、全くそのことがありません。
「今晩は茂ちゃんが、バカにおとなしいではありませんか」
お松が言うと、駒井が、
「珍しくあの子の上に船長の威令が行われた」
と言って微笑《ほほえ》みはしたけれども、その実はなんとなく、淋しい思いに襲われていることは、お松も同じことです。
噪《さわ》ぐべき人は噪いだ方がよろしい。歌うべき人は歌った方がよろしい。船長の威令を無視してまでも、あの子はあ
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