ってお通りになったので、どうすることもできず――御面会のために群がる者へは、
「越中守殿は卒中にて倒れたが、只今、粥《かゆ》一椀を召上られたから心配御無用、御療養中、面会は一切おことわり――」
ということで、とりあえず細川家へ急をお告げになりました。
細川家では、その翌日、「細川越中守宗孝、薬用叶わず、卒中にて卒去」ということの喪を発しましたが、暗殺は公然の秘密に致しましても、伊達家の証明|如何《いかん》ともし難く、病気ということで公儀の取りつくろいも一切御無事に済みました。
これはこれ、有徳院様お代替りの延享四年十月十五日のことでございました。
御承知の通り、国主大名が殿中に於て非業《ひごう》の死を遂げた場合には、家名断絶は柳営《りゅうえい》の規則でございますから、伊達公のお通りがかりが無ければ、細川家は当然断絶すべき場合でございました。そこで、細川家が再生の恩を以て伊達家を徳とすることは申すまでもございません――その時に、細川家で家老たちが相談をして、文禄朝鮮征伐の時の王羲之の孝経の半分を持ち出し、いささか恩義に酬ゆるの礼として、これを伊達家に御寄贈になりました。これで細川家
前へ
次へ
全227ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング