東道の主《あるじ》なる閨秀詩人が、今日は薄化粧して嫣然《えんぜん》として待ちかねている。物慣れた老女が一人かしずいて席を周旋し、老船頭が一人船をあずかって迫らない形をしている。
「田山先生、ようこそ」
「いや、どうも……恐縮です」
白雲がいたく恐縮をしてしまいました。ことには、いかなれば旅絵師のやつがれ風情に、今日はこうして扶桑《ふそう》第一といわれる風景のところに、絶世の美人で、そうして一代の詩人に迎えられて、水入らずにお月見――美酒あり、佳肴《かこう》あり、毛氈《もうせん》あり、文台がある。山陽、東坡のやからすら企て及ばざる風流韻事の果報なり、と心を躍《おど》らせずにはおられません。
「時に、玉蕉先生、一つお願いがあるのですが」
「改まって、何でございます」
「ここに一人の少年と、一頭のムク犬がおります、拙者の従者なのですが、画舫《がほう》の片隅へ召しつれて差支えございますまいか」
「ええええ、差支えございませんとも」
「では、茂――ムク――」
白雲は茂太郎とムクとをこの船に引きずり込み、やがて、風流|瀟洒《しょうしゃ》たるこの月見船は、松島湾の波の上を音もなく辷《すべ》り出し
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