雲の眼からは、あのままで、畳の中へ吸いこまれてしまったのか、でなければ、障子の隙間から消えてしまったようにしか受取れないので、やっぱり眼を光らして呆れ返って、さて、ホーッと太い息をついたのみであります。

         九

 駒井甚三郎の無名丸《むめいまる》が、あれからああして、無事に牡鹿郡《おじかごおり》の月ノ浦に着いたのが、洲崎を出てから十四日目の夜のことでありました。
 着船は、わざと夜を選んだのは、駒井の思慮あってしたことでしたが、無論その前後、この辺の漁船商船が、駒井の異形なる船の出現を怪しまないはずはありません。
 だが、朝になって見ると、その船の上に、仙台家の定紋《じょうもん》打った船印が立てられてあることによって、浦の民が安心しました。
 御領主の御用船とあってみれば、文句はないのですが、駒井がそうして無断に仙台家の船印を濫用してよいのか、一時の策略で、それを利用してみても、あとの祟《たた》りというものはないか。
 その辺には、駒井としては充分の遠謀熟慮があってのことだろうから、それは憂うるに足りないことでした。第一、船つきをこの月ノ浦に選んだということにしてからが――故意でも、偶然でもなかったのです。
 そもそも、この月ノ浦というのは――それを説明する前に、溯《さかのぼ》って、東北の独眼竜伊達政宗を説かなければならないのですが、そうすると記述が徒らに肥えて、ロマンの肉が痩《や》せる。ただ、伊達政宗が、その昔、この港から、ローマへ使節を遣《つか》わした港であるということだけを、とりあえずしるして置く。
 そうして駒井甚三郎は、かねて海外に志ある人としての伊達政宗をかなり研究していたところから、一つはその思い出のために、この由緒《ゆいしょ》ある港を選んで着船したものと見て置いていただいてよろしい。
 本来ならばこの船が着くと同時に、真先かけて、はしけに立っている七兵衛の姿を見なければなりませんのですが、それが見えないことが、誰よりもまず清澄の茂太郎を失望させました。
 茂太郎は船の舷上に立って、左の小腋《こわき》には例の般若の面をかかえたまま、呆然《ぼうぜん》として爪を噛んで陸地の方を見つめたままです。
「なあーんだ、七兵衛おやじが来ていないや」
 これが着いたその夜のことです。夜のことでも、漁村と漁船には点々たる火影《ほかげ》が見えないということはなかったのですが、それでも陸地一帯は茫々模糊《ぼうぼうもこ》たる夜の色に包まれている間を、茂太郎は淋しげに見渡して、
「七兵衛おやじが、こっちへ駈けて来るのが、船の上ではよく見えたんだがなあ」
 茂太郎としては、珍しく、ほとんど泣き出しそうな声をして、彳《たたず》みきって動こうともしません。
 なるほど、そう言えばそうです。海上遠くメーンマストの上で、茂太郎は、「七兵衛おやじが、走るわ、走るわ」とわめき立てたことがありました。その時の調子と、今日のしょげ方とを比べて見ると、それではあの時のは、檣《ほばしら》の上の出鱈目《でたらめ》の即興ではなくて、真に、茂太郎の眼では、磐城平から海岸通りを北走する七兵衛の姿を認めたのか。
 そんなはずはあるまい。あの時は、陸地を避けて、船はあんなに遠く海洋の沖中を走っていたのだ。四顧茫々として、遠眼鏡を以てすら陸地がいずれにあるかさえわからなかったその中で、茂太郎が仙台領を走る七兵衛の姿を認め得られるはずはないのです。
 しかし、あれが即興の出鱈目であるとすれば、ここへ来て、こんなに失望する理由もまた消滅しなければならないのではありませんか。
 ましてこの夜のことです。はしけ[#「はしけ」に傍点]で迎えに来ないからといって、この見渡す海岸のいずれの地点にかその人が待兼ねていないとも限らないのに、以前の即興があまりに眩燿的《げんようてき》であっただけに、ここへ来ての失望が独断に過ぎるのは、多少気の毒と滑稽を感ぜしめないわけにはゆかないのです。
 今や茂太郎はパッタリと、出鱈目も歌わず、即興も叫ばぬ人になってしまいました。尤《もっと》も駒井としては、船がかり中は別して静粛を保つようにと、特に入港の前に申し渡してあるのですが、それを、すんなりと守り得られる茂太郎ではないはずで、船が着く時は、彼の即興がまたネジを戻すものとばっかり思われていたのに、ひっそりとして、全くそのことがありません。
「今晩は茂ちゃんが、バカにおとなしいではありませんか」
 お松が言うと、駒井が、
「珍しくあの子の上に船長の威令が行われた」
と言って微笑《ほほえ》みはしたけれども、その実はなんとなく、淋しい思いに襲われていることは、お松も同じことです。
 噪《さわ》ぐべき人は噪いだ方がよろしい。歌うべき人は歌った方がよろしい。船長の威令を無視してまでも、あの子はあ
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