が持って参りましたものは一切、行李にしまいまして、石巻の田代屋という宿にあずけてございますから、あれへおいでになってお受取りを願います。残らず始末を致して参りましたはずでございますが、もしや、一品二品、取残しがございましても、あんな際の時でございますから、ごかんべんが願いたいので……ともかくも、石巻の田代屋というのをたずねてお越しになって、駒井の殿様のお着きをお待ち下さいませ」
 態度のいけ図々しいのに反して、その取りしきりぶりと、物言いとは、行届ききったもののようですから、白雲がいよいよ手がつけられない気持がしました。
「うむ、そうか、それは何から何まで厄介千万になったが――お前という男は何者だ」
「いや、それは、あとでお船のうちで、ゆっくりと身の上話を聞いていただく時節がございましょう――とにかく、これだけのことを申し上げて置きまして……」
「そうして、お前はなにか、これから旅立ちをしようというのらしいが、どこへ行くのだ」
「いいえ、旅立ちというほどじゃございません、ちょっと、この辺をかけめぐってみたいような虫が起りましたものでございますから。なあに、病気がなおりますと、直ぐにまたあなた様のおあとを追いかけて、石巻へ参ります」
「そうか」
 白雲は、それよりほかに何とも言いようがない。憮然《ぶぜん》として、なお燈下にうずくまる男を見下ろしていると、右の老爺《おやじ》は平蜘蛛《ひらぐも》のような形をしているのが、気のせいか、見ているうちに平べったくなって、畳にべったりくっついてしまっているように見えて、白雲も少し気味が悪いような気分にさえなりました。
 ぴったりと畳の上へ、一枚になって、吸いついた形になって、顔だけを上げて、蛇籠作りの老爺は、
「時に先生――」
 いやに改まった物の言いぶりです。
「何だ」
「承りますと先生は、あの赤穂義士の書き物がたいそうお好きだそうで……」
「ナニ、赤穂義士の書き物――そんなものは別に嫌いではないが、改まってきかれるほど好きではない」
「でも先生は、仙台様の御宝蔵にあって、たとえ将軍家が御所望になってもお貸出しをなさらない赤穂義士の書き物を、一目見たい見たいとおっしゃったようにお聞き申しましたがな……」
「こいつ……」
 白雲が罵《ののし》ったのは、怒ったからではありません、呆《あき》れ果てたからです。思わず眼をまるくして「こいつ」と前置をして、
「それをどこで聞いた。赤穂義士ではない、支那の王羲之《おうぎし》といって、支那第一等の書家だ。その書が仙台家にあるそうだから、それを見たい見たいと言ったには相違ないが、それを貴様、どこで聞いていた」
「いや――その、ちょっと、失礼ながら立聞きを致しました。先生が、それほどにごらんになりたがるほどのものならば……と、この老爺、またしても持って生れた病がきざして参りましてな」
「ナニ、何がどうしたというのだ、仙台公秘蔵の王羲之は、国主大名将軍といえども借覧のかなわないものだから、是非に及ばない。それがどうしたというのだ」
「へ、へ、へ、実は、この老爺も乗りかかった船でございますから、まあ、止せばいいんでございますがね、持った病でございましてな――人の見られないものを見たい、人の持てないものを持ってみたいなんぞと、ガラにない山っ気がございますものですから、まこと仙台様の御宝蔵のうちに、国主大名将軍様でさえも拝見のできない品とやらがございますならば、ひとつ何とかして、ちょっとの間でも、それを……何とかして……」
「馬鹿――何とかしてと言ったところで、貴様|風情《ふぜい》に何となる」
「そこのところを、何とかして、ここ二三日のうちに……駒井の殿様のお船がおつきになるまでの暇つぶしに――と申しては勿体《もったい》のうございますが、できないはずのそのお宝を、それほどの御所望でいらっしゃいますから、それを一目なりと、あなた様のごらんに入れて――それからまた思召《おぼしめ》しによっては、元通り、どなたにもわからないように、もとのお蔵へ返して置いて上げたいと、こんな、いたずら心が出たものでございますから、ちょっと、御念を押しに参りましたようなわけで……では、それは赤穂義士じゃございませんでしたか、支那の王羲之という支那第一等の字を書く方、その方のお筆になった巻物――それだけでよろしうございますね。はい、承知を致しました、やり損ないは御容捨を願いまして……」
「うむ――貴様」
 田山白雲は徒《いたず》らに眼をむいて、大きな唸《うな》りを発するのみであります。
 その時にまた鶏が啼きました。そうすると、平べったくなっていた老爺が、急にのし上り、
「では、これで失礼を致します、御免下さいまし」
 すっくりと立って、障子の隙間から――事実は相当にあけて出て行ったのですが、白
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