、この川の気象を見ると、悠々として北から流れ来って西へ溯《さかのぼ》るところが、他の河川の北より出でて東海に注ぐ河相と趣を異にしている。北上の名の字面《じづら》も単純ではあるが、大きくして淋しい、または何となくこの川の川相を尽している、なんぞと字義の詮索にまで及んでみました。
 白雲はそうして、のぼせきって川をながめている間に、もともとこの地点は渡頭のことで、仙台から南部へ通ずる要路でありますから、いかに北地のこととはいえ、一人、二人、三人の旅人が川岸へ集まって来るのであります。漁者《ぎょしゃ》もあれば樵者《しょうしゃ》もある、農工の人もあれば旅の巡礼もある、馬もある、駕籠《かご》もあろうというものです。それがやがての間にかなりの数にまとまって、そこで一同が誰言うとなく、ブツブツと言い出しているうちに、じれったがる声、船頭を呼ぶ声が口々を突いて出でたので、それとは少し離れて高いところになっている地点で、右の如く風景をほしいままにし、空想を食物としていた白雲の耳にまで届くようになりました。
「なるほど……舟が出ない、拙者のように風景を食物として、心目を遊ばせている身とは違い、人生の必要あって旅程を急ぐ人にとっては、待たせられるのは長いものだ、待つ身はつらいものだ、なるほど、待たせるにしても、これはどうも少し待たせ過ぎるな、いくら北のハテの暢気《のんき》な土地柄にしても、あまりに悠長な船出ではある、自分が来てからでも、これだけの時間、もうこれだけの人が集まっている、船頭が顔を出してもよかりそうなものだ」
と、舟を待つ人の不平に白雲はそろそろ共鳴したが、なるほど舟は川の下に見えるが、船頭がいない。
「オーイ、船頭どん」
「どしゃむしゃ船頭どん」
 盛んに呼びたてているが、船頭が返事もしないのは、あの小屋の中にいないらしい。いないとすれば、ドコぞへすっぽかしたのか、そうでなければ向うの岸へ舟を渡して行って、向うからまた人をその舟へ乗せて渡るという段取りだろう。ははア、向うの岸にも船頭小屋があり、舟があるにはある。舟といえば、この渡しの舟の形はおかしい、舳《まえ》も艫《うしろ》もない、ひきがえるを踏みつけたようなペッタリした舟だワイ、あちらの岸の舟もそうだ。
 いったい、川舟と草鞋《わらじ》は土地土地によって違う。川舟の形というものは、土地のものがその河流の水勢によって経験的に工夫した形が多いから、一定したものだと思うと大きに違う。例えば、富士川の急流には富士川の急流に向くように底までがちゃんと附木《つけぎ》ッパのように薄くしてある。利根川の舟でも、上流、中流、下流、皆それぞれ違う。今ここへ来て北上川の舟が、ひきがえるを踏みつけたようなペッタリした舟だと言って、それを笑うのは間違っている。草鞋にしてもそうだ、平地を歩くものは平地を歩くように、山路を歩くものはそのように、走って歩く商売の草鞋と、ずしりずしりと踏みしめて行く人の草鞋とは作り方が違う、形によって軽蔑してはならないのだ。
 白雲は、そんなことまで思い出していたが、まだ船頭の影も形も見えない。不平がようやく沸き上ってくる。いくら東北人は鈍重であるからといって、これではたまらなくなるのも道理だと考えました。
 いったい船頭は、どこに何をしているのだ。こっちの岸の舟小屋にだって一人や二人いなければならないではないか。いないとすれば向うの小屋に何をしている。
 悠々たる白雲も、ついに少し癇癪玉《かんしゃくだま》が焦《じ》れてきて、向うの岸を見つめていたが、どうも遠目にはっきりと見えないのをもどかしく思いました。眼を拭ってもう一度見直そうとした途端――白雲がはっしとばかり思い当ったことがあります。われながら迂濶《うかつ》千万、実は昨日、船を立つ時に、駒井氏から借用して来た「遠眼鏡《とおめがね》」というものが、ここにあるではないか。この行李《こうり》の中に納めて来て、こんどはこれをひとつ充分に活用してやろうとの楽しみが、こんどの旅程の一つの新しい景物と期待していたのを、今まで忘れていたのだ、こういう時だ、この時だと気がつくと、白雲は急いで行李を解いて、その中から取り出したのが最新式の「遠眼鏡」であります。

         二十七

 この「遠眼鏡」をもって、田山白雲が対岸の渡頭の船頭小屋のあたりに照準を据えた時、不意に右の船頭小屋の後ろから雲つくばかりの大きな男が飛び出したのを認めました。
 ははア、出たな、裏の方から出たな、出は出たが、今までの悠長さに引換えて、これはまた、すばしっこい飛び出し方だ、と呆《あき》れているうちに、その飛び出した大男が、河岸《かし》の舟の方へは来ないで、右手の小高い方へ一目散に何か抱えて駈け出して行く。どうも変だと見ていると、続いてまた、同じ船頭小屋のうし
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