の勇気が湧いて来ないでもありません。委細を見て見ぬことにしていれば、咄嗟《とっさ》の急にまた何かの手段が取れないでもなかろう。ここは、ただ落着いて息を殺していることだ――夜が明けるまでも、ここを動かないことだ。
それだけで月はいよいよ照り、庭の夜の色はいとど更け行き、何も知らないものから見れば、いつもと変ることのない静かな夜が、おだやかに深くなり行くばかりであります。
かなり長い時間の後、この庭にシューッと、鼠花火の走るような音がしました。一つの物影が地面を這《は》い且つ走るもののように、庭の上に線を引いたかと思うと、それからが一大事でした。
その直ぐあとから、同じく鼠花火のように筋を引いて追いかけた幾つかのもの、それがお寺の縁の下あたりから出たと思うと、それからというものは、眼前に、月明りの夜に見えていたお松にとっても、全く何が何だかわからないのです。大きな独楽《こま》がグングン唸《うな》りを立てて夜中を飛び廻っている。立木をくぐり、庭石を飛び、燈籠をめぐり、全く眼にとまらない迅速でグングンと独楽《こま》が庭一ぱいに廻ったり隠れたりする、そのあとをまた幾つかの独楽が入り乱れて追いかけるのです。これはやっぱり大きな捕物には相違ないけれども――何者が何者を捕えようとするのだかは、さっぱりわかりません。追いかけられる方の姿が眼に止らない上に、追いかける方が「御用」ともなんとも叫ばないのです。お松は、全くいらいらして、何とも口の出しようもありません。
そのうちに、追われている大きなブン廻しの独楽が、くぐり抜けて勢い込んで、問題の臥竜梅《がりゅうばい》の下まで廻って来たような姿を認める――追いかけられた独楽の勢いでは、その臥竜梅の梢《こずえ》へ飛びつきたかったものと見えましたが、その幹のうつろに近づいたかと思うと、その下に伏せてあった天水桶がガバと動きました。
「捕《と》った!」
お松はよろよろとよろけました。
天水桶から飛び出したのは、それは、昼のうちの気のよい桶屋さんの形によく似ている。それが、今しブン廻しで臥竜梅の幹の下までくぐり抜けて来た、その追われる独楽の主に、前面から大手をひろげて飛びかかって、
「占めた!」
そこで桶屋さんが、まともにぶっつかって来た大きな独楽を抑えつけたものですから、その独楽との正面衝突です。
「捕った!」「占めた!」というのは、おそらく、勢いこんだ気合の掛声だけだったのでしょう。
正面衝突から両箇が組んずほぐれつの大格闘になったのが、お松の眼にありありと分ります。それから、その一人が気のいい桶屋さんであるだろうこともいよいよ推想されますが、ぶっつかって来た独楽の何者であるかはめまぐるしくってわからない。これが居ても立ってもいられないほどにお松の気を揉《も》ませるのです。
しかし、この両箇が臥竜梅で組んずほぐれつの大格闘を演じている間も、そう長いことではありませんでした。何となれば、追われた独楽の方は身一つであるけれども、それを追いかけたものには幾箇の捕手があり、それが、桶から出て正面衝突に組みついた桶屋さんに加勢する。
「ち、ち、ちくしょう、途方もねえ奴だ、骨を折らせやがる、貴様はどこの何者で、誰の縄張りだ――おれは仙台の仏兵助だぞ」
「…………」
組み打ちながら、仙台の仏兵助と名乗ったのは、天水桶の伏兵をつとめていた昼の桶屋さん――の声に相違ないと、お松の耳には響きましたけれど――敵に名乗りをかけられて相手の独楽がいっこういらえがありません。
しかしこの独楽が、まだ充分に抑えきられていないことは、多勢を相手に必死の抵抗が乱闘となり行くことでわかります。
お松は全く気が気でありません。
せめて、この相手の一人が、何とか言葉を出してくれればいいと思いました。
何とか一言いってくれれば、この気がいくらか休まると思いました。いいえ、そんなどころではない、追われて来て、ここで組み止められている人が、七兵衛おじさんでなければ果して誰でしょう。
違いない、違いない、七兵衛おじさんがこうして追い詰められて、いま、つかまろうとしているところだ。
ああ、どうしよう。
自分の力では――出ていいか、出て悪いか。出たところでどうなるものかと言ったって、みすみすああして、捕まってしまうものを……
「うぬ、てごわい奴!」
「あっ!」
「失敗《しま》った!」
この失敗った! という一語が、どちらの口から出たのか。それだけが、わくわくしていたお松の耳にそれてしまいました。いや、たしかにその一語を聞き止めたには相違ないけれども――それがいずれから出たのか、仏兵助と名乗りをあげた桶屋さんの口から出たのか、追いかけられて組みつかれた七兵衛おじさん――仮りにその人だとして――の口から出たのか、お松が聞き漏
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