れているとは、自分ながら考えていないに違いない。
 そこへ行くと与八さんは――あの人だけはいつも温かい。やさしい。人を疑うことと、物を怨《うら》むことを知らない人だ。あの人に負われながら、わたしたちとは反対に西の方へ行ってしまった郁太郎さん――ああ、またあの子の身の上を考えると、たまらない。
 ああ、いけない、いけない、こんな思い過しをしてはいけない。さし当っての仕事は、あの七兵衛おじさんを助けることだ。何のためにこんな窮命を好んでしておいでなさるのか、それはわからないにしても、自分としてはこの当座の使命――当座の食糧を運ぶことだけは完全に為《な》し遂げなければならない。
 お松はようやく瑞巌寺の中門に着きました。庫裡へは案内あることですから、とりあえず目的の臥竜梅へは行かずして、なにげないお使のように見せて、手前から庭を見渡すと、イヤな桶屋さんももう姿が見えません。あの桶屋さんが、お松の仕事を妨害するために、昼夜ぶっつづけで頑張っているのでない限り、日が暮れると共に仕事を仕舞い、仕事を仕舞うと共にあの場所を立去ることは当然なのだが、それでも、あの梅の木の下は、大桶小桶の幾つかが置きっぱなしであるのを見れば、明日もまだまだ天気である限り、頑張り通すものと見なければならない。
 一通り見すまして、お松がそっと臥竜梅のうつろの方へ急ごうとすると、門前からドヤドヤと人が入り込んで来ました。三人ばかりは巡礼の風をしているのです。巡礼にしては今頃、変だなと思って足を控えていると、その巡礼は本堂へは拝礼をしないで、さっさと縁をめぐって、なんだか宵闇の縁の下へ姿をくらましてしまったようにも見えました。

         十九

 お松は、その宵闇の中に吸い込まれてしまった巡礼姿の二三人でさえが、心もとない人たちだと思わせられている途端に――今度は向うの一方の庭木立を潜って、人が這《は》い寄って来るのを認めました。それがいよいよ合点《がてん》がゆかないことに思い、自分の身も塀際《へいぎわ》に沈めるようにして様子をうかがってからでないと、どうにも仕様がないように思いました。
 月の夜ですから、その気になって見さえすれば、物の隠顕はよくわかるのですが、一方から這い出して、そろそろと木の間をくぐる人の影は、どう見ても尋常の人ではない。おのおのその扮装《いでたち》をした捕方《とりかた》の人数だと認めないわけにはゆきません。
 お松は胸のつぶれる思いをして、自分は物蔭から月の陰影で、自分の姿は安全に保証されている立場から、一心にそれを見詰めていますと、それは自分が心がけている臥竜梅の大木の下を、その捕方は目指しているような足どりで、そこへ来ると、数人が居合腰になってかたまり、額をあつめている。
 お松が息をこらしてそれを眺めているとも知らず、右の捕方と覚しい一かたまりは、そこで額をあつめて、一応の合図をしたと見ると、どうでしょう――一人、二人ずつ、昼のうちからお松の焦躁《しょうそう》の種を蒔《ま》いていた、あのイヤな桶屋さんの置き放した桶の前まで来ると、一人ずつが素早く、その大きな修繕半ばの天水桶を無雑作に押傾けると、その中へついと身を隠してしまったのです。そこで表面は何もない伏せ桶の中には、たしかに五人ばかりの人数が隠されてしまっているということが、お松の眼にはっきりと受取れてしまいました。
 これは、尋常ではない――お松は手にしているお弁当を取落そうとしました。こうなるとお弁当を供給するその使命そのことよりも、この場のなりゆきを注視することが大事です。たとい夜が明けるまでも、この場は去れない。この場にこうしていて、これから先のなりゆきを監視し尽さなければならない。そう思って見れば、そこへ姿を消した巡礼姿の人も怪しい。あとのは、てっきり人を召捕るためのお手先に相違ないが――そうだとすれば、誰を召捕るため、それは言わずと最初から胸一杯に思い塞《ふさ》がっている。自分がこの当座の糧食を捧げようと思う目当ての人と、今のあの人たちが覘《ねら》っている目当ての人と、同じでなくて何であろう。
 ああ、こうして七兵衛おじさんが召捕られるのだ。何の間違いで、また何の罪で――これはこうしてはいられない。こうしてはいられないといって、どうすればよいのだ、今の自分として、事の急を七兵衛おじさんに告げ知らせてやる便りは無いではないか。よしそれがあったとして、自分がこの場を飛び出せば、七兵衛おじさんが召捕られる以前に、自分が捕まって、当座の動きが取れなくなるにきまっている。声を立てて叫ぼうか、それとも、この垣を越えて逃げようか――そのいずれも進退きわまっている。ただ、為し得ることは、ここにいて事のなりゆきの一切を見つめていることだけだ。
 お松は絶体絶命の立場から、また一種
前へ 次へ
全57ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング